活字の森 思考の迷路

読んだ本や考えたことなど徒然なるままに書いていきます

掃除しづらい家電とトイレの話

だいぶ空気が乾燥してきた。ということで今日から空気清浄機の加湿機能を使うことにした。

給水タンクなどを綺麗に洗ってから使い始めたが、どうして電機製品はこんなに凸凹が多くて汚れやすい作りなのだろうと思う。凹凸をもっと減らしてくれたら給水タンクのすみっこなどが汚れなくていいのに。汚れが付きやすい場所に限って作りが複雑になっている。凹んだ部分の水垢を落とすのはかなり大変だ。

トイレの温水洗浄便座もノズルの出口周辺に凸凹がついていて水垢や汚れが付きやすい。歯ブラシを使って掃除するけれど、水垢だけならまだしも夏はこの付近にもカビやピンクぬめりがついてちょっと悲しい。というかバイ菌が付かないかおしりが心配になる。

洗濯機ももっと汚れの付きづらい形にしてほしい。洗剤投入口や柔軟剤投入口に凸凹が多くて洗剤成分が残りやすい=カビやすい。

こういう衛生的に使いたい電機製品に限って凸凹しているところを見ると、デザインしている人は家事をしない男性なのかなと思ってしまう。もっとお掃除しやすい形だったらうれしいんだけどな。

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トイレ掃除の話が出たのでトイレの話もしてしまおう。

私はトイレ掃除を毎日する派。小林生観さんの使うたびにトイレ掃除をするとお金が入る説を信じている。ただし、小林生観さんのように外出先のトイレまで素手で掃除することはまだできない。いろいろ病気に感染したらイヤだもん。その代わり、外出先のトイレに入ったらトイレットペーパーで周囲の埃を拭き取ったり床に散乱したトイレットペーパーのクズを捨てたりはしている。気は心。やらないよりはずいぶんマシだと思う。

そして世の男性諸君、女子トイレが綺麗だと思ったら大間違いだゾ。

まだ中身の入った飲み物のペットボトルやカップ、コンビニ弁当の容器、ストッキングの包装紙などが乱雑に捨てられていることが多い。そういうことは駅のトイレに多いがデパートのトイレでもそういう光景を目にする。バッグに入っている邪魔なものも一緒に排泄していく女子が結構大勢いるらしい。ごみ箱に捨てていくならまだしも棚の上や床に捨てていくので「誰がこれを片づけてくれると思っているんですかね?」といつもあきれてしまう。あなたの不要なごみを片づけるためにお掃除の人がいるわけではない。自分のごみも処理できずに人に押しつけていくなんてどういう精神をしているのか。というか、多分、そういうことをする子は汚部屋に住んでいるだろう。ものを大事にしたり衛生観念があったらああいうことはしない。もしかしたら日本の子じゃないかもしれないけれど。というのも差別ではなく、とある国に仕事で滞在したときにホテルもレストランもフェリー乗り場もお手洗いは本当に悲惨だったから。高級ホテルに宿泊したのにロビーのトイレに入ると従業員も手を洗った水を鏡にぺっぺと飛ばして平気だった。大抵の女性があまり清潔にお手洗いを使っていなかったのが大変衝撃的だった。

男性は女子トイレを覗いてみるわけにはいかないけれど(いや、絶対に覗いてはいけないけれど)、トイレを綺麗に使えない子を彼女やお嫁さんにするのはちょっと考えた方がいい。ひとつにはものを大事にできない子だから。もうひとつは人の迷惑を考えることができない子だから。それから、衛生観念が希薄だから。そういうところが魅力なんだよといわれたら止めはしないけど。

 

あと不思議なのはトイレットペーパーの先が床までだらんと垂れていることがあること。そんなに長くトイレットペーパーを引き出してどうやって使っているんだろう?

そういえば以前、ズボンのウエストから長いトイレットペーパーをヒラヒラさせている人やスカートの裾からトイレットペーパーをヒラヒラさせている人を目撃したことがあったけれど(場所はいずれも新宿)、もしかしたらトイレットペーパーを引きだしてカットしてから使うのでなく、引きだしたものをそのままズリズリとおしりに持っていっているのかしら???

以前お世話になったことのある制作会社である女性のあとにトイレに入ると必ずトイレットペーパーの先が床に垂れていたんだけれど、どうやって使っているのか聞いてみればよかった。とても美人さんだったけれど、トイレットペーパーの君、元気かなあ。

 

 

 

 

本を処分する

 

昨日ブログで宣言した通り断捨離に着手。

今日は本棚から溢れる本に着手した。いや、溢れて入りきらない本はまだ新しいもので、本棚に陣取っている古い本が処分の対象なのだが。

処分する本は50冊以上になり、本棚に入りきらずに重ねてあった本を空いたスペースに収め始めたのだが……何ということでしょう! 前よりも本棚が雑然としてしまった。読む順番などを考えてまだ仮置き状態で高さや種類もそろえて収納できていないのが原因だが、これだけ雑然としているところを見るともっともっと処分しなければならないという気になる。

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大学時代、貧乏学生だったので書店で欲しい本を見つけてもなかなか買えなかった。バイト代が入って買いに行くともう売れてしまっていた。そのせいで「本だけはほしいものがあったら無理をしてでも速攻で購入すべし!」という変な信念が生まれてしまい部屋は本で埋まることとなった。仕事で使う資料もあるから余計に増えていく。だがいまはAmazon電子書籍の登場で本を手放すハードルは格段に下がった。検索すれば大抵のことは調べられるので資料としての本の必要性も下がった。数年前はこれを手放したらもう会えないかもしれないとか、手放した途端に資料として必用になるのではないかという恐怖心から本の処分はなかなか精神的にも疲れる作業だった。以前は本を手放すときには断腸の思いで箱詰めしていたのに情報を集めやすい時代になったいまはそんな悲壮感は姿を消し、冷酷非道に処分している。処分と言っても古書店に引き取ってもらうので持ち主が私から別の人に変わるだけなのだが。

 

モノを処分するとそこに新しいものが入ってくると風水やスピリチュアル界隈ではいわれている。失業したときに黙々と断捨離をしたら以前よりもいい仕事がみつかったとか、臨時収入が入ったとか。古い書籍をずっととっておくと新しい情報が入ってこないとも言われている。今回50冊以上手放すのだから、近い将来どんな新しい情報が入ってくるのか楽しみだ。

また以前、本を処分するときには思い切って捨てないとお金が入らないと書かれた本を読んだことがある。金運をよくするには売っては駄目だ捨てなさい、と。いいなと思ったことはとりあえず何でも試してみる私だが、その提案は実行したことがない。だって本がかわいそうだから。以前も書いたが私はものには命が宿ると考える質なので「次の人のお役に立っておいで」と送り出してあげたいのだ。

 

片づけ熱に火が付いたのでこのまま毎日コツコツ断捨離をしていこうと思う。

とりとめのない話になってしまったので今日はここまで。

 

 

 

 

村井理子「兄の終い」を読んで

村井理子さんの「兄の終い」を読んだ。

大変失礼ながら存じ上げない作家さんだったが、以前Kindle日替わりセールか何かで上がってきたときに何となく心惹かれてポチッた。

何に心惹かれたかというと

一刻も早く兄を持ち運べるサイズにしてしまおう。

憎かった兄が死んだ。残された元妻、息子、私、……怒り、泣き、ちょっと笑った5日間」

という帯の言葉だった。

兄を持ち運べるサイズか……しかも、一刻も早く。しかもこれは小説ではなく著者の村井さんご自身の体験なのだ。何だか読まないわけにはいかないと思った。

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2019年、村井さんは宮城県塩釜市塩釜警察署からの電話で由井市の肉親である兄の死を知らされた。しかし兄は周りに迷惑ばかりかける人で、村井さんとも折り合いが悪くもう何年も会っていなかった。第一発見者は兄と2人で暮らしていた小学生の息子・良一くん。15時頃学校から帰宅した良一くんが室内で倒れている父を発見し救急車を呼んだという。お兄さんは脳出血で室内で倒れ即死だったようだ。

とにかく、計画はこうだ。

遺体を引き取ったら、塩釜署から斎場に直行し、火葬する。一刻も早く、兄を持ち運べるサイズにしてしまおう。それから兄の住んでいたアパートを、どうにかして引き払う。これは業者産に頼んで一気にやってもらう。

塩釜警察署から電話を受けて村井さんは瞬時にこう考えた。

そして住居のある滋賀県から宮城県に向かって淡々と着々と兄の終いをしていく。

力になってくれたのは兄の元妻で良一くんの母である加奈子ちゃん。加奈子ちゃんとも5年前に自分の母の葬儀で会って以来ということだ。だがこの2人は実に淡々と兄の始末をつけていく。淡々とと書いたが本人たちにとっては大層な修羅場だったに違いない。遺体の引き取りもそうだが、散らかって不衛生でありなおかつ兄が倒れた場所に吐瀉物などが残されたアパートはなかなかの大惨事だ。そこをすぐに引き払わなければならない。また、一時的に児童保護施設に保護されている良一くんの今後の生活も早急に手を打たなければならない。しかし、村井さんが大変理性的なため読み手はこのヘビーな状況にグイグイ引き込まれていく。

兄と兄の人生を片づけるのはもちろん、この5日間の修羅場を通して村井さんは自身の中にあった兄との上手くいかなかった関係も解消させていく。

 

私は友人や家族との永の別れがかなり多いのでこのような「死」を扱ったテーマの本に惹かれる傾向がある。そして、村井さんほどの修羅場は経験していないが家族の葬儀はどれもこれも大変だった。昔、伊丹十三監督が「お葬式」という映画で初めて葬儀を出す家族をコミカルに描いたが、本当に悲しみに浸る暇もないほど忙しく、ドタバタで、そしてコミカルだった。

そんな大変な葬儀をいろいろ経験したが、親族だというのに葬儀にノータッチだったこともある。父の死だった。父は客死だった。そしてその時はすでに母と離婚して何年も経っていた。これが私が父の死にノータッチになってしまった理由だったが、父はなぜか母の連絡先を書いたメモを持っており、そのため家にその旅先の警察署から電話があったようだ。しかし、母は引き取りを拒否した。私が引き取ろうと思ったがまだ若く財力がこれっぽっちもなく断念。父の亡骸は別の家族に引き取られた。そんなこともあったせいでこの「兄の終い」には余計に興味が出たのだと思う。村井さんはきちんとお兄さんと物心ともに別れができたが、私は父の遺体にすら会っていない。しかし、だからといって心の整理ができていないかと問われればそれはない。当時は父の葬儀にも携われないことに情けなさを感じたが、毎日回向することで心の傷は残らなかった。ただ、父の家族は遺体の引き取りなどさぞ大変だっただろうなと「兄の終い」を読んで改めて考えた。

 

村井理子さんのお兄さんは周囲にいろいろ迷惑をかけた人だったようだが、私の周りで亡くなってしまった友人たちや家族たちは周りの人たちにまだまだ必要とされ愛されている、みんなにとってかけがえのない人たちばかりだった。いい人の方から先に死んでしまうんだなと訃報を受け取るたびに思う。来世に必要とされたからなのか、いい人たちだからこの地球よりももっとずっといい場所に神様から招待されてしまったのかどうかはわからない。しかし、私のように養う家族もなく取り立てて重要なポジションで生きているわけでもない人間はピンピンしている。どうしてなのだろう。私はめっちゃ長生きしそうな予感さえする。不条理だ。そして私は訃報を受け取るたびに家族からも「お前の友だち死にすぎ!」と恐れられる。どうしてそんなにお見送りをしなければならないのかもよくわからない。

けれど、それぞれの死にそれぞれの人生の物語がある。村井さんのお兄さんもこのエッセイの中でどうしようもない部分が描かれているが、

 

今でも兄を許せない。でも、そんな兄の生き方を許し、肯定するたった一人の誰かに私がなろう。

と村井さんは思えるようになった。それは兄のアパートのある多賀城で会った心優しい人々や元義姉の加奈子ちゃん、一緒に塩釜まで行ってくれた元小学校教員の伯母の存在が大きかったのかもしれない。兄や母との確執、兄の死にまつわるなかなかの修羅場だが、兄の終いをともにしてくれた人々の心の温かさに村井さんは助けられたのかもしれない。

 

私もひとり暮らしだ。もしも死んだら警察から家族に連絡が行くことは村井さんのお兄さんと同じだろう。けれど、村井さんほどの迷惑を家族が被らないようにいまから部屋の掃除はもちろん整理整頓をしようと思う。明日から思い切った断捨離に入ろう。

 

 

新しいカーテンは運を呼び込むか

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昨日、湿度が下がったので大チャンスだと思ってカーテンとレースカーテンを洗濯した。せっかくなので窓ガラスと網戸もきれいにした。まるで年末大掃除のようだが大掃除は年末以外に何度やってもいい。というか、窓掃除くらいなら大掃除と呼ぶまでもない。

綺麗になった窓に洗い上がったばかりのカーテンを掛ける。空気が乾燥しているので物干し竿に干すなんて行程はすっ飛ばして直接カーテンレールにかけちゃう。洗剤のいい香りもして気持ちいいな〜なんて思っていたのだが、レースカーテンのシワを伸ばすために引っ張ったら穴が空いてしまった。そりゃそうだ、もうこの部屋に引っ越して来て10年。年に2〜3回洗濯をしているし紫外線も毎日浴び続けているし、劣化していない方がおかしい。それでも一応カーテンレールに取り付けてみたけれど、小さな穴が目立つ。というか、どうしても気になってしまう。

現在ギャラがいつ入ってくるのかわからない状態が続いていて懐が心許ないのだがAmazonでレースカーテンをポチってしまった。

そして、今日の午前中にもうその新しいレースカーテンが届いた。いや、午後の配達を指定したのだがAmazonは午前中に来た(笑)。昨夜は遅かったのでゆっくり寝るために午後の配達をわざわざ指定したのだが……まあ、早く届いたのだからいいか、と考えることにした(しかし配達完了メールは午後届けたように配信され、ドライバーさんは指定時間を守らないと会社から怒られるんだろうなと推察)。

せっかく起きたのだからと早速カーテンを掛け替えた。

部屋の中が一気に明るくなった。

いくら年に何度か洗濯していても10年も使っていれば色がくすむものなんだなあ。やっぱり買ってよかった。懐事情を心配して買わなかったらこの心のすっきり感は味わえなかった。いや、もしも穴の空いたカーテンのまま過ごしていたら自分の性格からいって毎日毎日穴のことが気になって気になって仕方なかったと思う。穴を見る度に暗い気持ちになっていただろう。それに、壊れたもの、汚れたものは運気を下げると風水的にいわれている。まばゆく輝くレースカーテンを眺めていると何か新しいいいことが巡ってくるのではないかという気持ちになった。

また、窓掃除にも風水効果があるといわれている。窓やガラスなどの光るものを磨くと幸運が舞い込むとか、窓は気の出入り口なのでいい気を入れるためには窓掃除が大事とか、窓はいい気を呼び寄せる太陽の光が入ってくるところなので綺麗にしておかないと太陽の光がちゃんと入ってこないから運気が上がらないとか。風水の話が本当かどうかは別として、汚れた部屋ではしあわせは感じられない。

10年頑張ってくれたレースのカーテンには何回もお礼を言って袋に詰めてごみに出す準備をした。いろいろなごみと一緒くたにするのではなく、袋に詰めてからごみ袋に入れる。だって10年も頑張ってくれたのにティッシュやらお菓子の包装紙やら、他のごみにまみれて捨てられるのはかわいそう。私の中では自分の持ち物は何にでも人格が宿ってしまっているからお別れの時にはちゃんと敬意を払って始末する準備をし、きちんとお礼を言うのが流儀でもある。

 

 

 

YouTubeのペット動画と引き寄せの法則

ここ1年くらいはテレビではなく主にYouTubeを観ている。

ニュース系や政治系、オカルト系も観るが、動物系を観ている時間が圧倒的に長い。

そしていまそんな動画を観ながら猫を飼う妄想をしている。

いま、お迎えしようかなと思っているのはラグドール。あまり周囲を引っ掻かないという話が決め手。元々はしましまのねこさんが好きなのだが家具やパソコン周りを傷つけられると悲しくなるのであまりそこらで爪研ぎしない子は魅力的だな、と。

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ラグドール

ねこの前はうさぎの動画ばかり観てうさぎ廃人になっていたし、その次はいぬ、そしていまねこさんになっている。そして時々、ぺんぎんさんやパンダさんも観る。元々動物が好きで昔は家で十姉妹やいぬやうさぎを飼っていた。いまはペットNGのマンションに住んでいるので何とも同居していない。そこでYouTubeで癒されているというわけだ。

 

実はこれは自分なりのお手軽な現実逃避法なのだ。

コロナ以来仕事が不安定なので先のことを考えるとどうしても不安になる。そんなときにその不安や暗い考えから気をそらすのに動物動画を利用しているのだ。念のため言っておくと1日中画面にかじりついて動物動画を観ているわけではない。歯磨きをしているときやごはんを食べるときなどの隙間時間に観ることが多いが、その上で頭の中や心の中が不穏になってきたときに気をそらすために観ることがあるということだ。

引き寄せの法則というものがもともとそういうものなのだ。引き寄せたくないことを考え始めてしまったときにとりあえず思考を別のものにそらす。何しろ、不安や恐怖には感情が伴うので現実化しやすい。引き寄せの法則は感情を伴った思考をより早く、しかも着実に現実化するからだ。だから、頭の中が不安でいっぱいになりそうになったら自分の好きなことをとりあえずやって心を落ち着けてから物事に対処する方がよい。エイブラハムもワクワク宇宙人のバシャールも同じようなことを言っている。もしも本当にペットを飼っている人ならしばらくペットと遊ぶのでもいいし、ただ単にひとりで散歩に行って気を紛らわすのでもよい。

そんなわけで私はいま猫の動画を観る機会が多いのだが、もしかしたら来年あたり新居に引っ越して猫と一緒に暮らしているかもしれない(=^..^=)

そう、いま不安から気をそらそうと思って見ていた動画の中身の方を将来引き寄せてしまうのだ(笑)。けれど、楽しんで観ているのだからそんな風になると思わない?想像できることは何でも引き寄せることができるのだから。

ただし、自分は大変に面倒見が悪いということも心の中ではわかっているので、生き物は引き寄せないかもしれないなあ……。その代わり、いま頭の中でペットと一緒に暮らそうと妄想しているマンションは引き寄せるかも。具体的な場所も建物も実在のものだから。それならそれはそれでやはり楽しい。

 

 

愛の目盛りー

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昔から不思議に思っていることがある。

犬や猫などペットを多頭飼いしている人はどの個体にも平等に愛を注げているのだろうか?

それとも一番好きな子がいたり、お気に入りの順位があるのだろうか?

子だくさんのお母さんはどの子どものことも平等に同じだけ愛しているのだろうか?

自分のお腹を痛めた子どもだけれど一番好きな子と苦手な子がいたりしないのだろうか?

私は愛情の幅が狭いのでそこのところがよくわからなくて謎だ。

そんな自分は動物を飼うならば多頭飼いではなく1匹に心血を注ぐと思う。複数の子に平等な愛情を注ぐ自信がない。それとも、大勢の子に囲まれてしまえば考え方は変わるのか。かわいいなと感じる子に囲まれれば愛情とは無限に湧き出てくるものなのか?

 

恋愛でも女の子は「私だけを愛して〜」と考える子が多いと思うし、男性はあちこち目移りしてしまう人も多そうだ。先入観ではなく種の保存という本能があるのでそうなるのではないかと考える。ただ、草食男子が数を増やしているいまはもうそんな時代ではないかもしれない。となると、「私に振り向いてくれない」という悲しみに変わるのか。まあ、それはまた別の問題としておいとくとして、誰かの愛をひとり占めにしたくて「私だけを愛してほしい」とか「私と仕事どっちが大事なの!?」なんて思い詰めてしまう人はとても苦しいだろうなと想像する。

 

一体、愛情の分配ってみんなどうしているのだろう?

 

そこで、愛情を一定の分量しかないものとして考えてみた。

ここで、個人個人それぞれの愛には目盛りがついていて計測可能なものと仮定する。目盛りは0〜100まで。

100ある愛の中を「本人(自分を愛する)」「父」「母」「きょうだい」「恋人」「仕事」「趣味1」「趣味2」「友だち」「推し」………などと細分化していったら自分に割り当てられる愛の分量が低くなる。恋人が多趣味で仕事人間で付き合いも抜群にいい人で友だちの数も多く家族思いだったら悲劇だ。多分「アタシのことなんてどうでもいいのね、ヨヨヨヨヨ……」(古い表現w)と悲嘆に暮れながら過ごさなければならなくなる。

子どもとしてお母さんの愛を計ってみても「おとうさん」「お兄ちゃん」「ちい兄ちゃん」「お姉ちゃん」「妹」「おじいちゃん」「おばあちゃん」「ペットのミケ」……なんて区切っていったらやはり自分に割り当てられる愛が少なく感じるだろう。

愛を区分けすると愛してほしいと願っている側は大変苦しいのではないだろうか。

ということで、愛の目盛りを人や物事によって区切るのはかなり精神的に悪そうであまりオススメできない。

 

もうひとつの愛の計測の考え方、体温計や温度計のように愛だけを計るというのはどうだろう。いつも仕事や趣味で忙しくてなかなか逢えない彼も、自分と一緒にいるときには自分にだけ愛情を注いでくれればそれでよしとする考え方だ。

それならば、ペットを多頭飼いしていても、タマちゃんをなでなでしているときにはタマちゃんに100%の愛、ポチくんをなでなでしているときにはポチくんに100%と考えられそう。一度に相手にするときには多分、その集団全部に愛情が注がれているだろう。いや、わからないけれど、そう考えるのが平和だ。

ここで心しておかなければいけないのは例え1対1でも愛情の目盛りはなかなか100%にはならないだろうということだ。ふとした拍子に仕事のことを思い出してしまったり家族のことを思い出してしまうことだってある。何しろ人間は1日に6万回思考するといわれているのだから。80%以上の愛を注いでもらえれば満足できそうな気がする。もしも恋人の愛の値が50%以下だったら別れて他の相手を探すことも考えた方がいいかもしれない。

まあ、ここであげた80%や50%という数値に根拠はなく、感覚的なものでしかないけれども。

それでも、もしもいまこのブログを読んでくれている人で愛が足りないと悩んでいる人には、愛情のスケールを細分化しない方をオススメしようかなと思う。

 

 

 

今日が人生で一番若い日

人間はなぜか本当にやりたいことをやらずに人生を終えてしまうことが多いように思う。

”本当はミュージシャンになりたかったけれど食ってけないから諦めた”

”本当は留学したかったけどお金がないから諦めた”

”本当は芸能人になりたかったけど親が反対したから諦めた”

などなど。

これはまだ若いうちに多いかな。

中学生や高校生はまだいろいろな知識が足りないから「頑張ればできる方法」を知らないで諦めてしまう場合が多い。かく言う私もいろいろな奨学金制度を知らなかったので第一志望の大学は諦めた。親に「そんな大学に行かせる金がどこにある!!」なんてヒステリーを起こされてもう無理だと思った。このブログを読んでいるあなたがまだ中高生だったら夢を諦める前に突破口になる制度なり何なりを調べてみるといい。何しろいまはスマホなんて便利なツールがあって、ググれば何でも出てくる。

 

「人生の夢」みたいな大袈裟なことじゃなくても

”大好きなアーティストのコンサートだけど会場のある場所が遠いから諦めた”

”フラダンス習いに行きたいけど恥ずかしいからやめとく”

”あの子を食事に誘いたかったけどなんとなく言い出せなかった”

のような些細なことでもやらずに諦めることがある。もしかしたら、あのとき一歩踏み出していたら人生がガラッと変わっていたかもしれないのに。場所が遠いアーティストのコンサートに行ったらその土地があまりにも素晴らしくて移住していたかもしれないし、フラダンスを習いに行ったら生涯の趣味になったかもしれないし意外な才能が開花したかもしれない。気になる子を食事に誘っていたらお付き合いできていたかもしれない。

 

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そして年月が経ち、人生の新たな冒険に出られるチャンスが訪れたりいまの生活を一新できるチャンスが来てもそれを避けてしまう人は多い。せっかくのチャンスを目の前にしてできない理由を探す。実は人間は本能的に変化を恐れる生き物だから。それがよい変化であっても変わらない方を選択しがちだ。端から見ていればもったいないなと思うのに、本人は変わることへの恐怖から一歩前に足を踏み出すことができない。

今際の際にそれでよかったと思うかもしれないし、あのとき夢を追いかけておけばよかったと後悔するかもしれない。それは人それぞれだから「死ぬときに後悔しないためにやりましょう!チャレンジしましょう!」なんてことは言えない。ただ、私がこの2、3日考えているのは「今日が人生の一番若い日」だということだ。明日は今日の自分よりも年を取っている。何事もチャレンジするならちょっとでも若い方がいい。年を取れば取るだけ気力、体力、知力に陰りが出るのは当然だから。

 

私にもあれをやりたいこれをやりたいと思う夢のようなものがある。それに邁進できないのは気力と体力の衰えだ。どうしてこんなに気力と体力が人並み外れてないのだろうと恨めしく思う。今日は首痛からの頭痛が酷くて痛み止めを飲んでも効かず、朝からやろうと思っていたこともできなかった。このブログも今日は昼のうちに書いてしまおうと考えていたのに結局また23時を過ぎている。もう寝てしまって明日書こうかと思ったけれど、やはり今日がこれからの人生で一番若い日。何か一歩でも先に進んでおかなければこれからも先に進める気がしなくて書くことにした。確かに頭痛いし脳も働かないしいい文章は書けないかもしれないけれど、自分はできたんだという満足感はある。それに、やらない理由を探すのは好きではない。いまの自分から少しでもほんの1㎜でも向上したいと思う。やらない理由、できない理由なんて探せばいくらでもある。私は1日の途中……というか夜中までやらない理由に負けることが多い。それでも夜中になってやっと自分の弱い心に打ち勝ち「やはりやっておこう」ともぞもぞと行動し始める。これが日が高いうちに始めていればもっと効率よく生きられたし、もっといい人生を歩んでいたかもしれないんだけど。気力体力が充実している人が羨ましい。

 

ただし、人生の選択にいい悪いはないらしい。変わることを選ぶのもいいし、変わらないことを選ぶのもいいらしい。そのときの選択はどちらを選んでも間違いではない。人間の魂は選んだ方の体験を学ぶようになっているのだそうだ。そうはいってもやっぱりもうちょっと向上する人生の方を選んでおきたかったなあ。

そんなわけで少しでもいい自分になれるように、人生で一番若い日に何かひとつだけでも前進しておくことにする。