活字の森 思考の迷路

読んだ本や考えたことなど徒然なるままに書いていきます

災害と電話番号

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先日、災害時の備えについて取り上げてるテレビ番組をちらっとだけ見た。

非常持ち出し袋の中身は自分や家族に合わせてアレンジした方がいいとか、災害時に使うトイレや機材などを実際に使ってみた方がいいという話をしていた。それも大切だけれど、もうひとつ盲点だなと思った話もあった。それは災害時にスマホが使えなくなる話だ。実際に停電か何かで電車も止まりスマホも使えなくなったときに塾帰りの小学生たちがとても困ったというのだ。子どもたちは現金を持ち歩いていないのに停電のため電子マネーは使えないし、みんなでタクシーで帰宅しようと持ってもタクシーで電子マネーが使えるかかどうかもわからない。しかも、家族に助けを求めたくても通話機能自体が使えない。大人なら公衆電話を使えばいいじゃないと気づくが、小学生たちはどうやら公衆電話というものの存在を認識していなかった。後日取材で、ひとりの女の子がお母さんと一緒に公衆電話を使う練習をしたが、そのときにお母さんが公衆電話からの着信を拒否していることが発覚。これではもしもスマホが使えても連絡が取れなかった。

一口に被災と言っても備えなければならない食べ物も薬も、そして行動も人によって違いがある。子どもだけのときに被災するのも大変だし、小さな子ども抱えた親御さんも大変だ。

自分は子どもではないし子どももいないけれどこの路頭に迷う子どもたちの再現シーンを見ていて「!」と思ったことがあった。私は家族や友人の家の電話番号がひとつも頭に入っていない。もしも災害時にiPhoneが壊れてしまったり電池が切れてしまったらどこにも連絡できないではないか。

私は数字が上手く認識できない。ということは覚えられない。自分の電話番号はいろいろな書類に嫌と言うほど書いたから頭に入っているが、家族や友だちの電話番号はiPhone任せだ。それでもいざというときに備えて1か所くらいどこかの番号を覚えた方がいいかもしれない。

そんな私にも、たった1か所だけ、幼児の頃から覚えている電話番号がある。それは祖父の家の電話番号だ。「○○局の○○○○って言ってみなさい」とまるで九官鳥に言葉をおぼえさせるように伯母に何度も何度も言わせられたから頭に染みこんでいるのだ。伯母は私が言えるようになるまで何度も言わせた。何かあったらちゃんとここに連絡できるようにとの伯母なりの姪に対する愛情だったのか躾だったのか。ただし、かなり以前に祖父も亡くなって祖父の家もない。せっかく覚えている電話番号は使えない。

他にも義務教育時代の同級生の家の電話番号で覚えているものがふたつみっつあるが、それはここには書けないような、よくそんな縁起の悪い数字ばかり並べたなと感心するような、とても悲惨な語呂合わせなので覚えているだけだ。これらの同級生とも卒業とともに疎遠になったので災害時に電話をかけられるような相手ではないし、そもそもまだその番号を使っているかもわからない。

けれど、語呂合わせで電話番号を覚えていられるならその手で家族の電話番号だけでも覚えてみるか……と思ったがそもそもそんな語呂合わせができるような番号だったらすでに覚えているか。いや、スマホが登場して以来、スマホ同士で同期するだけだから番号なんて碌に見ていないな……。

とにかく非常時への備えは揃えたつもりになっただけじゃダメだなと思った。

そうだ、小さなアドレス帳とテレカか100円玉でも備えておくか。

 

 

 

 

【読書】「祈りの法則」天外伺朗

 

天外伺朗さんの本を読むのは初めてだった。

この本をチョイスしたのはAmazonのおすすめに出てきたこともあるが、個人的に祈りの力についてとても興味を持っているからだ。

 

天外伺朗さんはSONYで「CD」や「AIBO」などの開発を主導した、ちゃんと社会的に活躍された方である。本名は土井利忠さんといい、東工大工学科を卒業し東北大学工学博士でありエジンバラ大学名誉博士でもある。何がいいたいかというとバリバリの理系の方でありながらスピリチュアルに精通した方なのである。その方が書いた祈りについての本なのでどのようなことが書かれているのかとても興味を持ってページをめくった。

 

2000年、インディアンの長老から聖なるパイプを受け取った天外さんは20年にわたってパイプセレモニーというインディアンの祈りの儀式を続けてきた。

祈りというと病気、貧乏、不幸などの現実を変えたいとき、合格、結婚など自分がそれを得れば幸せになると信じている物事を手に入れたいときに行うもので、「現実を変えてやる〜!!」という強い気持ちが必用なものだとずっと思ってきた。それは幼い頃からそう教えられてきたからでもある。しかし、インディアンの祈りは違う。ただひたすら周りに感謝を捧げていくだけなのだ。天外さんもいろいろな人から祈祷を頼まれるが一貫して環境や周囲、出来事などありとあらゆるものに感謝を捧げていく。するとなぜか現実が好転し始めるのだ。

そして本書の中で天外さんは「『祈りの力』が強いと危険が伴う」と書いている。それは自分が望んだ結果を得るために現実を変えてやるという祈りの方で、インディアン式の祈りには危険はないそうだ。現実を変える祈りをすると現実を変えた反動で却って別の不運が襲ってくるなど安寧な人生を歩めるわけではないというのだ。天外さんの観察によると強い祈りの力を持った人は会社の経営は順調になっても不思議と精神を病んだ人を抱えていたり自殺者が出るケースがほとんどらしい。

 

厳しい修行により、とても強い「祈りの力」を身につけた方もいらっしゃいます。あまり世の中では知られていませんが、信じられないような奇跡的な祈りの例も、けっこうたくさんあります。これが「上級の祈り」です。

 ところが、このような「宇宙の流れ」をコントロールする祈り、というのは宇宙に歪みをもたらし、その歪みを受け止めなければいけません。

 

例えば大学合格を祈るとすると自分が合格することで他の人が落ちてしまう。それはエゴの祈りなので宇宙の流れから大きく逸脱してしまい、歪みが災厄として跳ね返ってくることになるのだとか。エゴの祈りをするとその結果割を食う人がどこかにいて、人の不幸の上に自分の幸福は築けないということになるのか。またそれはスピリチュアル界の一部で言われている「人間に自由意思はない」とか「人生は全てシナリオ通り」という説とつきあわせて考えるとどうなるんだろう。この説だと強い祈りで宇宙を歪ませることも生まれる前から決まっていたシナリオ通りということになる。

ただ私は以前から齋藤一人さんや小林正観さんの本を読んだりYouTubeで講演を聴いたりしているので「感謝が大切である」ということは馴染みのある教えだ。これからますます感謝の思いを強化していこうと思う。あらゆるものに感謝を捧げていこう。

 

しかし私がこの本の中で一番印象に残ったのは祈りというよりも怨念の話だった。

それは2000年の8月、天外さんがインディアンの長老・セクオイヤに誘われて平和祈願の儀式「サンダンス」に参加したときの話だ。

 

 サンダンスというのは、8月の満月をはさんでの4日間、飲まず食わずのまま、炎天下で踊るというインディアンの過酷なお祭りであり、これもホワイト・バッファロー・カウフ・ウーマンが伝えてくれた儀式のひとつだ、と言われています。

 ご先祖の霊を呼び出して一緒に踊るので、日本の盆踊りと似ています。ただ、娯楽化している盆踊りに比べてはるかに厳粛で、鬼気迫るものがあります。

 (中略)

 サンダンスのハイライトに、「ピアス」という儀式があります。

 長老が手術用のメスで背中(もしくは胸)の皮膚に2か所穴をあけ、そこに短い木の棒を通し、会場の中央に立てられた木とロープで結びます。ダンサーは、思い切り走ってドーンと木の棒に負荷をかけます。それを、皮膚がちぎれるまで何度も何度もくり返します。多くの人が血だらけになる凄惨な儀式です。

 セクオイヤの場合には、背中に4か所木の棒を通し、木の枝から垂らしたロープに括りつけて身体を空中に3メートルまで引き上げました。そこで、みんなでロープをゆさゆさとゆすり、皮膚が破れて落ちてくるまでやるのです。一般のダンサーより、はるかに凄惨でした。

 (中略)

 なぜこのような凄惨ともいえる儀式をするか?

 セクオイヤに聞くと、ここで自分たちが苦痛に耐えることにより、世界中の人々の苦しみを身代わりになって引き受けるという崇高な意味があると言いました。したがって、苦痛は強烈なほどよいそうです。

 私は、長年、白人から凄まじい迫害を受けてきたインディアンたちは、自分自身の身体を激しく傷つけないと気が済まないほどの激しい葛藤を抱えている、という感じがしました。

 

先祖代々の土地のみならず誇りも文化も取り上げられてしまったインディアンたちの苦しみは私が想像する以上のものだろう。

ほかにも松前藩のだまし討ちで殺害されたアイヌの英雄・シャクシャインがまだ成仏しておらず、天外さんのパイプセレモニーによって天に昇っていった話も出てくる。シャクシャインもやはりインディアンのような凄まじい怨念を抱えているというものの、同じアイヌが長年祈りを捧げてきたにもかかわらず成仏することがなかったのはなぜなのだろうか。

天外さんの考察はこうだ。

 

 アイヌが祈ると、どうしても怨念を上塗りしてしまうのかもしれません。自分たちも大和民族に対して深い怨念を抱いており、地縛霊の怨念と共鳴してしまうでしょう。その怨念から離れないと成仏できないのですが、祈り手が怨念を抱いていると、それは望めません。

 おそらく、この317年で大和民族が50人も来て祈ったのは初めてでしょう。先住民の和解であり、大和民族に課せられた宿題だったのです。

 

要するに大和民族がわびを入れた感じになったのではないかと。

 

いまも地球上では少数民族の弾圧が行われている。それを糾弾する側の国も先住民を迫害してきた過去がある。脛に傷のない国はないのかよ、といった状態だ。なぜ人間は先住民を迫害してまで領土や権力を広げていこうなどと考えてしまうのか。文明も文化も進化した。精神も進化させ凄惨な歴史をくり返さないようになってほしい。

 

 

 

 

夜型人間の苦しみ

世の中は朝早く起きて学校や仕事に行くようにできている。

だが、全員が全員朝向きの体質ではない。

 

故有って今月から早起きをして(※自分基準)仕事をしているが体も頭も付いていくのが大変である。早起きが苦ではない人から見ると朝が苦手な人は生活がだらしないと思われそうだがそういうことではない。私は本当に体質的に朝に弱い。どのように弱いのか上げていくと

  • 朝早く起きると下痢
  • アラームで目覚めると下痢
  • 起きて数時間気持ち悪い
  • 頭が全く働いていないので人として使い物にならない
  • 血圧が上90行かない
  • 体温が35度台
  • 1日中体調が優れない

我ながらよくこれで小学校から大学まで通い会社員として何年も務めていたなと感心する。この症状を見ると早起きすると多分自立神経がおかしくなるということなのだろう。お腹にくるのは本当に年齢と同じくらい悩んでいる。小麦粉製品を摂取するのを控えてから大分マシになったが早起きするだけで毎日午前中ずっと下痢とかかなりつらい。こういうときの下痢には止瀉薬は効かない。気休めに飲むけど。

早寝も苦手。早くベッドに入っても1時間以上眠れなくて苦しんでいるときが多い。それなのに翌朝早く起きなければならないという拷問。人間は早朝から活動するものだという社会の仕組み自体が拷問だから仕方ない。以前は眠れないことにストレスを感じていたが、目を閉じているだけでも疲れは取れると考えるようになってから寝付けないのは仕方ないと思えるようになった。けれど、夜型人間が朝方に合わせて生きていくとなると萬年睡眠不足状態になるのでつらい。いくら夜眠れなくても物理的に朝が来て働かなくちゃいけないのだから。目の下には二重にクマができているし頭の働きも鈍くなるので人間として終わっているように感じてしまう。

 

先日見つけた「動物睡眠タイプ診断」はオオカミ型だった。当たりすぎていてびびった(笑)。

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幼児の頃から夜寝なくて両親からよく怒られていた。怒られてもどうしようもできなかった。だって夜眠くならなかったんだから。いま思い返してみると両親とも夜型だった気もする。父は完全に夜型だったと思う。顔も寝相も父にそっくりだといわれていたから体質も遺伝したのだろう。

動物睡眠タイプ診断にも「朝の早い仕事は苦労します」と書かれているが、朝の授業も苦労だったし朝の仕事も苦労だ。朝方に寝てお昼ちょっと前に起きると一番体調がいい。

人間が朝起きて出勤してという生活をするのは労働者(奴隷)を管理する側が管理しやすいからだという説があるが管理する側の人は全員朝型人間なのだろうか。人間は元々太陽が昇ったら起きて日が沈んだら寝るという生活だったらしいから当たり前か。だとすると夜型の我々一族はどうやって生き延びてきたのだろうか。電気も行灯も何もなかった時代は夜型人間は存在しなかったのだろうか。いや、夜型人間がいれば夜間の見張りができてオオカミなどの肉食獣からみんなを守ることができたのかもしれない。しかし時代は現代。いくら眠れないことを気にしないようにできるようになったとはいえ、萬年睡眠不足を感じているわけだからマイケル・ジャクソンプロポフォールを投与してもらっていた気持ちがものすごくわかる。睡眠不足は心身ともに憔悴していくからね。一度でいいから気絶したようにぐっすり眠ってみたい。

 

スマホを持っただけなのに

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今日もマルチタスクの話。

って、お前はマルチタスクと掃除の話しかできんのかっ!って言われそうだけど続ける。

というのも今日、こちらの動画を見つけたから。

 

 

先日私もブログにマルチタスクでIQが下がるという記事を書いたが、こちらの動画はその理由を岡田斗司夫さんがわかりやすく説明したもの。

mori-meiro.hatenablog.com

 

岡田さんの動画は面白いのでよく観ている。

この動画でいわれていることをざっくりまとめると(本当にざっくり)

  • ニュージーランドの大学教授のジェームス・フリンさんが1984年に「人間のIQは年々上昇する」というフリン効果というものを発表した。それによると20世紀に入って人類の知能指数は10年単位で上がっている。しかし、それも1990年代に頭打ちになった。丁度ビデオが登場した頃と同じである。
  • しかも2010年から下降している。おそらく10年ごとに平均IQは6〜7ポイント下がる。その原因は「ながら」いわゆるマルチタスクスマホをしながら何かするということを覚えてからIQが10年ごとに6〜7ポイント下がるようになった。
  • スタンフォード大学で自分でマルチタスクスマホいじり、音楽を聴きながら、テレビ見ながらほかの作業をする)が得意だと思っている人を対象に調査すると集中力が低く実験問題の点数が低いことがわかった。これは「注意残余」という脳には切り替えをする時間が必用であることが原因。例えば映画を観ている途中で数秒間スマホでメールをチェックしただけで元に戻るまでに数秒の時間が必用
  • 脳はマルチタスクの最中にドーパミンを放出するためにマルチタスクをすると作業が進んでいるように錯覚する。注意力を散漫にすると報酬系のホルモンが放出される。なぜならば人類は原始時代、集中して狩りや採取などをしていると肉食動物に襲われてしまうから集中しないように脳が作られている。
  • マルチタスクはまるで作業効率が上がっているように感じるが調べてみると明らかにシングルタスクの方が効率がよい。
  • ではスマホを見たり触ったりしなければどうなるか大学生500人で実験した結果もある。サイレントモードか電源をオフにしてポケットに入れて教室に入り試験を受けたグループと、スマホの電源を切ってなおかつ教室にも持ち込まなかったグループでは明らかに後者の方が点数が高かった。なぜならばポケットに入っているだけで無意識のうちに数分に1回スマホのことが気になりそれを押し殺すために脳の処理能力の約10%を使用するから。では他人のスマホが机の上にある場合はどうか。それだけでも点数が下がることがわかっている。
  • スマホは常に新しいこと、注目すべきことを教えてくれるため常駐している重いアプリと同じ。他人のスマホすら気になる。
  • ウェブの文章でリンクを無視するだけでも文章の理解力が下がることもわかっている。それはリンクを踏みたいという心を抑えるのに脳の処理能力を使うから。

最後のウェブの文章が頭に入らないという話、「だからか!」とすごく納得した。ウェブ上で文章読んでもほとんど印象に残っていないことが多いのは紙との見た目の違いだけではないんだな。まあ、ここにもリンク貼りますけどね(イヒヒ)。Newsweekの「人間の知能指数が年々上昇する」というフリン効果は20世紀に終わっていた!?という記事なんてどうでしょう?これであなたの脳の処理能力は下がったかもしれない。

 

私としては実は元々マルチタスクをやりたかったわけではなく、環境によってそうなってしまった感じ。これは多くの人も同じだと思う。子どもの頃は上のきょうだいが「深夜放送を聴きながら勉強できる」なんてことを自慢している時期もあって「自分もそうならないとな」なんて憧れたりしたし、数年間在籍した制作会社ではずっとラジオを流しっぱなしにしていて最初はどうしても集中できないので止めてほしいと思っていたのにそのうち慣れてしまった。小さな制作会社はラジオが流れている率高めな気がする。そしていまはiPhoneiPodが手元にあって、何か頭を使わない作業をしているときに音楽や人の話を聴いていたくなってYouTubeを利用したりしている。

何とか脳のダメージを回復させようと今日も炊事洗濯の合間に音楽を聴いたりYouTubeで朗読を聴くのを止めにした。これでもっと頭がスッキリしてくるといいのだが。

 

 

 

夢が戻ってきた(夜見る夢だよ)

先日、マルチタスクのやりすぎで脳が疲労して記憶力も効率も悪くなったし、夜、夢も見なくなったと書いた。

 

mori-meiro.hatenablog.com

 

そのため、家事をしているときになるべくYouTubeなどで講演や朗読を聴かないようにし、毎日ではないがマインドフルネスも取り入れるようにした。

その結果。

なんと、夢が戻ってきた!

夢は眠っている間に記憶の整理をする役割もあるそうだが、脳の疲労が取れてやっと情報処理をするようになったということなのだろうか。

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私はもともと夢を克明に覚えているタイプだ。19歳頃から明晰夢になったので夢を見るのが楽しくて仕方がない。それをここ2〜3年、ほとんど見なくなってしまって一体自分はどうしてしまったのかとおもっていたのだ。やっと脳も元に戻りつつあると考えていいのだろうか。

先日は子どもの頃住んでいた家に知らない女性とふたりで忍び込んだ夢を見た。どうしてそんな夢を見たのかと思い、夢の中の家にどのようなものが置いてあったか思い出そうとしていたが、家族に「その女の人って一体誰!?」と言われて初めて「あ、そういえば全く知らない子だったな。自分より若いような気がしたけど、確かに知らない人だ」と気づいた。多分20代のボブヘアの笑顔のかわいらしい女の子、白いセーターを着て、スレンダーな子だったな、一体誰だったんだろう。まったく嫌な感じも怖い感じもしなかったけれど。なぜその女性の登場にこだわるのかというと、その家は女の地縛霊が住みついていたりとても怖い家だったからだ。トイレの前にずっと立っている女の霊とか、寝ていると名前を呼んで起こしてくる女の声とか。あの家に住んでいるは毎日が恐怖体験の連続だった。しかし、夢に出て来た女の子はそういう怖い存在ではなかった。あの家はすでに取り壊されたと聞いたが、トイレの前の女も声だけの女も成仏できたのだろうか。

トイレの前の女については拙著「魂のいとまごい」に書かせていただいたのでご興味があればお読みいただけると幸いです。

 

 

さて、今日も少しマインドフルネスをしてから眠るとしよう。

この記事を書いてくださったみなさまも、楽しい夢を見られますように。

 

誰かの捨てた幸運を拾う

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先日も夜中にこっそりごみ拾いをした。

かなり遅い時間だったのをいいことに少しテリトリーを広げてみたが、そこはいつもガラの悪そうな車が違法駐車しているような場所で、夜通るのはちょっと嫌だなと思うような道。そんな場所だから、まあ、獲物の多さに驚いた。道路一面が吸い殻だらけだった。多分、社内の灰皿をそのままひっくり返して道路に捨てたのだろう。というかまるで節分の豆まきのように撒いたみたいだった。それのみならず、袋に紙屑やティッシュのごみ、液体風邪薬の瓶などを入れたものまで投棄してあった。隠れた場所でも道の端っこでもない。堂々と人目につく場所に捨てていったのだ。ティッシュと液体風邪薬って「コロナかよ!」とびびったが、私は誰かが捨てた幸運を残らず拾うことにした。そう、ごみのポイ捨ては幸運を捨てるような行為なのだ。

 

マンションのごみステーションに戻って常識のない人が道端に捨てていったごみの分別をしながら気づいた。いままでも道端に不法に捨てられたごみは何度も何度も目撃しているけれど、それらは一体誰が処分してくれていたのだろう?町内会の人?近所の人?ごみを捨てられてしまった道に建っている家の人?本当にイヤだっただろうな、やるせなかっただろうな、怒りをどこにぶつければいいのかわからなかっただろうな、とすごく心が痛んだ。私はと言えば誰かが捨てた幸運を拾ったような気持ちでいるから微妙にワクワクした気持ち半分と、こんなに幸運を捨ててしまってごみをまき散らした奴の行く末を考えて怖い気持ちが半分。

 

怪談説法の三木大雲住職が法華経を広める人のところには変化の人(へんげのひと)が現れてピンチを助けてくれる、お坊さんじゃない人たちは徳を積むこと。徳を積むと変化の人が現れるというお話をされていたが、ごみを捨てて人に迷惑をかけるような、徳と反対のことをしてしまっている人はどうなるんだろう。自分は全く良心も咎めず平気でやっているのだから案外何も悪いことは起こらないかもしれないけれど。何しろ悪いことをして地獄へ落ちるのは心の中に罪悪感があるからだという説があるから。ま、あの世の本当の仕組みは誰にもわからないけどな。ただ、人に迷惑をかけるような行動を日頃からするような人は周囲とのいざこざも絶えないだろうから幸せではあるまい。生活態度に苦言を呈されることも多いだろうし、身勝手さに呆れられて人が離れていってしまうことも多いだろう。ていうか、以前も書いたかもしれないけれど、こうやって自分のごみもちゃんと片づけられないような人は絶対に自分のお尻も綺麗に拭けていないよね。絶対にパンツ汚れているはずだ。お洒落で高級なブランド服を着ていてもだ。

 

それにしても、やっぱりガラの悪い道は汚かった。いや、汚いからガラの悪い車が集まっていたのか。破れ窓理論だな。

 

マルチタスクで脳がヤバイ

学生時代、音楽を聴きながらやテレビを見ながらの「ながら勉強」をしたことのある人は多いと思うし自分もそうだった。そして社会に出て働き始めると会議に出席しつつ手元で別の資料を作ったりするようになる。そうやって関係のない別々の作業を同時進行で行う人の方ができる奴、というイメージが強かった。

また私生活でもテレビを見ながら食事をしたりラジオを聞きながら家事をしてしまう。ひとつの作業だけを行うのは時間がもったいなく感じてしまうのだ。しかし実はこの関係のない作業を同時に行う「マルチタスク」という行為が脳にダメージを与えるのだそうだ。私はそのことをネットの記事で読む前に自分の能力、思考力、気力の急激な衰えから「もしかして脳疲労しているのかな?」となんとなく気づいていた。気づいていたが止められなかった。

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人間の脳は厳密にマルチタスク処理を行えないらしい。集中力を向ける先を素早く切り替えているだけで、決してマルチタスクで処理できているわけではない。それなのにマルチタスクを続けていると脳に大きなダメージがあり、放置すると若年性認知症にもつながりかねないらしい。ほかにも学習能力の低下、ストレスホルモンの過度な刺激のせいで頭にもやがかかったような状態になる、新たな刺激を次々と取り入れたくなるドーパミン中毒、記憶力の低下、IQの低下などの影響があるという。どれも恐ろしいものばかりだ。また、マルチタスクは仕事の生産性を40%も減少させるという研究結果もある。

 

私の場合、仕事でマルチタスクになるのはある程度仕方のないときもあるが、問題は私生活もかなりマルチタスクをだというところだ。食事中はYouTubeを見ているし、家事仕事をしているときには音楽を聴いたりYouTubeで誰かの講演会や本の朗読などを聴いたりしている。寝るときも朗読を聴きながら寝る。ひとつのことだけに集中している時間がほとんどない。家事だけしていると時間がもったいない気がするし、寝るときに静かだと布団の中で頭が高速回転を初めていろいろなことを考え出し眠れなくなってしまうのだ。

また酷いときにはYouTubeを見ている最中にニュースが気になってテレビをつけて、なおかつスマホでいろいろ調べ始めてしまうときまである。目の前に何の関連もない画面が3つ開いている異常な状態だ。

 

自分の思考力や集中力が落ちたなと感じ始めたのと生活のなかにYouTubeを取り入れ始めたのが同じ時期だということは薄々感じていた。

まず、朗読を聴きながら寝ると夢をほとんど見なくなった。元々は明晰夢を毎日見ていたのに。夢は私の想像力・創造力の源泉でもあった。

そして、自分を向上させるために何かを吸収しようと家事の最中に聴き始めた講演会や朗読もそれほど頭の中に残っていないことにも気がついていた。それでもながら聴きを止めることも寝るときのYouTubeも止めることができなかった。記憶力も思考力も行動力も低下し、人間としてどんどん能力が下がっていっているというのに。たくさん知識を吸収したいという欲望もあるが、それ以上に自分がいろいろと後ろ向きなことを考え始めるのを止めておきたいという気持ちがながら聴きから足を洗うことができない大きな理由だ。何かで頭をいっぱいにしておかないととんでもなく後ろ向きのことマイナスなことを考え、不幸な将来の妄想を始めるからだ。私はそんな恐ろしい未来を引き寄せたくないので自分のマイナス思考をどうしても止めておきたいのだ。

だが待てよ。脳が疲れているからマイナスなことしか考えないのかもしれない。脳が元気ならば私にもプラス思考を続ける能力を発揮できるかもしれないじゃないか。

今日から早速ながら聴きを止めてみようかな。寝るときの朗読も聴かずにおこうか。いや、絶対頭が冴えていろいろ考え始めてしまう。それならば明日からマインドフルネスを毎日の生活に取り入れるしかないかもしれない。マインドフルネスで頭の中のいらないものを処分しなければ痴呆まっしぐらの可能性も否めない。恐ろしや。

いつも疲れているのも脳疲労からきている可能性もある。今年は脳を癒して元気にして、はつらつとした人間に生まれ変わろうかな。