活字の森 思考の迷路

読んだ本や考えたことなど徒然なるままに書いていきます

ドラマ「きのう何食べた?」は素敵な愛情物語

 

先日You Tubeでオススメされてテレ東の「きのう何食べた?」を観た。関連するような動画を観ていなかったのでどうしてオススメされたのかは謎だったが、観始めたら面白くて全12話+2020正月スペシャルを3日間で一気観してしまった。

原作である漫画の方は読んでいないのでそちらとの対比はできないが、なかなかに見応えがあり大人の愛情の物語が心にグッとくるドラマだった。詳しいストーリーなどは下のリンクをクリックしてください。

www.tv-tokyo.co.jp

ja.wikipedia.org

 

このドラマのいいところは愛情が激情型じゃないところ。主人公のふたり、シロさん(西島秀俊)は45歳、ケンジ(内野聖陽)は43歳。実際、いい年になったらそうなるよね。ケンジは激しくシロさんを愛しているけれども引くところは引いていて押し付けがましくない。シロさんの気持ちを慮って日々過ごしている。シロさんにとってケンジは理想の相手ではないから肩肘張らずに付き合えているということでシロさんの愛情はちょっと雑。ケンジにおいしいものを食べさせたくて毎日手に縒りをかけて何品も料理を作る繊細さと愛はあるのに、昔アイドルだった女優に心をときめかせたり、ケンジとの関係を周囲に隠したがったり、まるでふつーに異性同士のカップルの彼氏のようだ(シロさんの方が女性寄りらしいが……)。

主人公カップルの愛情もほんわかしているし、周囲の登場人物たちはキャラは濃いがこちらもほんわかしている。登場人物たちの人との距離感が本当にいいなと素直に思った。

ほかにも友人関係、親子関係といった間柄での関係性や愛情の描き方ですごいなと思った点を4つ書いてみる。

 

1.親子間の愛情への過剰な期待と演出がない

世間的には親が毒親でも「そうは言っても親子なんだから親孝行しなさい」的な風潮があるが、そういった話や演出がなかったところにも好感が持てた。

例えばケンジの父親はお酒を飲んでは家族に暴力を奮ったり金を無心してくる下衆な男だったが、ケンジはそんな父親と母や姉たちを近づけないし、中学生の時にすでに酔っ払った父親に「迷惑だから来ないでくれ」ときっぱりと言っている。現在、父は生活保護を受けているらしくケンジのもとに面倒を見られないか尋ねる文書が役所から送られてくるがそれもきっぱりと拒否。例え血がつながっていても家族や自分を苦しめる相手のことは拒否できる。それが冷たいとか責任放棄だと言う人たちもいるだろうが、こればっかりは毒親を持った人でなければわからない。下手に責任感でなんとかしようとすれば共倒れになるし、おそらく後悔しか残らない。世の中の慣例や世間体を気にして面倒を見ることにしたら最終的には親をいまの1億倍くらい憎んだまま人生を終えることになるだろう。

♯8に出てくるケンジの友人のゲイカップルのうちのひとりも親との確執があり「自分の築いた財産を自分が死んでも両親にはビタ一文渡したくない、パートナーと養子縁組して彼に残したい」ということで弁護士であるシロさんに相談している。

親族間の確執の強さは経験している本人にしかわからないし、血がつながっている方が憎しみ加減が半端ない場合もある。そういうところをメロドラマとして描かなかったところに私は心地よさを感じたし好感が持てた。

また、シロさんが正月に初めてケンジと両親を引き合わせるが、ここでも親子間の愛情が濃密すぎない。両親の深い愛情はあり、母親はシロさんがゲイだとわかった途端に新興宗教に走ってしまうくらい悩むが、描かれ方が重くない。シロさんも両親も気を使い合っているしそれぞれ認め合っているが微妙なすれ違いもある。けれどもそれをことさら大袈裟に取り上げたりはしない。シロさんと母親が料理を作っている間にシロさんの部屋でシロさんの卒業アルバムを見ながら語り合うケンジと父親。ケンジはシロさんはなぜ弁護士を目指したのかなど自分が思うところを語っていて、それがとてもよい話だったのに両親が気にしていたのはそんな精神性の話ではなく「ゲイである息子がいつも女装してるのかどうか」というところだった。ケンジが女装していないことを知って心から安堵する両親。家族の心配なんて案外そういうところにあるのかも。

 

2.ケンジの愛が半端ない

ケンジのシロさんへの愛情が海よりも深いことは置いておくとして、ケンジは周囲の人たちへの愛情も深く気遣いの仕方がさり気ないし外れていない。

シロさんと喧嘩したときも自然と仲直りできるように振る舞い、勤務先の美容室のスタッフともお客さんとも信頼関係を築き、シロさんの両親にもさり気なく気を使う。一回りほど年下の友人のゲイ航くんはとても生意気だが、ときどきかわいい対抗心を燃やすだけで航くんの嫌味な態度にも憎まれ口にも余裕で対応。ふっと見せる笑顔には「かわいい」と思っているフシもある。

乙女で情緒不安定なところもあるけれど、人として懐の深いところが見ていて感心する。あんな人になりたいなあと思わせてくれる愛情深さ。まるで菩薩のようだ。

 

3.役者さんの演技が半端ない

シロさんの西島秀俊、ケンジの内野聖陽はもちろん、脇を固める人たちの演技も本当に素晴らしかった。特に小日向さんを演じた山本耕史には笑わせてもらった。パートナーの航くんを「風と木の詩ジルベール」にそっくりだと思っており(実際にはちょっとむさ苦しい青年)、何かひどい仕打ちをされても「ああ、かわいい……」と独り言ち、航のために料理を作るシーンではムキムキの体にタンクトップという出で立ち。その姿がものすごく妖艶で声を出して笑ってしまった。おにぎりをにぎる手付きの妖しさはみんな見た方がいい(笑)。山本耕史恐るべし!と本気で思った。

また、内野さんの顔が漫画のケンジにそっくりに見えるときがあって、それも役者ってすごいなと感心した(似た人をキャスティングしたのかもしれないけど)。

 

4.料理が手頃

毎回誰かが作る料理をその作るところからきちんと見せるグルメドラマでもあるが、その料理に使う材料がペットボトル入りのだしつゆであったり安い食材であったり、明日真似してみようと思える料理の数々だった。グルメドラマだと調味料にまでこだわるというのがありがちで、実際このドラマでも小日向さんや両親に財産をビタ一文渡したくないカップルはグルメで調味料にも食材もお金をかけていたが、そっちの料理は作り方まで紹介していない。

これを見て私も明日から堂々とだしつゆに頼ろう!と思った(笑)。

 

劇場版もあるというのでこちらも観ないといけないなと思っている。

 

 

 

感謝すること

大きな声では言えないが私は自己啓発もスピリチュアルも大好き。というか不思議なことがワクワクして大好きだし自分を向上させたいし、その合体したものが自己啓発であったりスピリチュアルだったりするのだと思う。

スピリチュアルや自己啓発の評判が悪いのは、本から仕入れた情報や人から聞いた話を咀嚼せずに盲目的にしかもどこか勘違いしたまま実践している人たちがいるからだとも思っている。また、日本人は特にスピリチュアルに対する抵抗が強いので敬遠されがちだろう。だから私も他人様にはどちらの話もしない。本当は心ゆくまで語り合いたい気もするけれど。

まあ、幸せな人生だったらスピリチュアルや自己啓発に傾倒はしないということもわかっている。私の場合は幼少の頃から家が貧しく、大人になったいまもそれを引きずっているせいだ。

自己啓発でもスピリチュアルでも「あなたが貧乏なのはお金の悪口を言っているからです。人間もお金も自分の悪口を言う人には寄ってきません」と言う。

私はもちろんお金の悪口を言っていない。お金大好きだし。けれどもなぜか一向に豊かになれない。何ならいま人生最大のピンチにいると言っても過言ではない。

どうしてこんなことになっているのだろうか。お金の悪口も言っていないし、トイレ掃除も部屋の掃除もきちんとしているし、日々の出来事やいろいろなことに感謝もしているのに……。

というのがこれまでの悩みだった。けれども先日、私はあることに気がついた。

悪口は言っていないけれども心配や恐れの波動を出しまくっている、と。

支払いが心配、仕事が入るかどうか心配、この先どうなっていくのが心配、お金を使うのが怖い……私はこんな波動を出しまくっていた。宇宙はそれをキャッチしてそれと同じ現実を私に与えていたのだ。

ではそんな負の波動を出さないためにはどうしたらいいのか。まだそうなるとも決まっていない先々の不安をどうしたら考えないようになるのか。

ひとつには今に集中すること。暇だと碌なことは考えない。何か不安になってきたら自分の好きなことを速攻で始める。おいしいカフェオレをいれるだけでもいいし、工作をするのでも絵を描くのでも自分が楽しく集中できることをする。

もうひとつはいま自分が持っている豊かさを数えて感謝する。田舎の家族がお手製の梅ジュースとそれを作った梅の実を送ってきてくれた。毎年おいしい梅と梅ジュースを送ってくれることに本当に感謝。

私はやったことがないのだけれど、梅仕事って本当に手間がかかるらしい。傷をつけないようにきれいに洗って、ひとつひとつヘタを取って……。今年も本当においしくて、ジュースはあっという間に飲みきってしまいそうだし、梅もあっという間に食べ尽くしてしまいそうだ。

それからもうひとつ、お手製のブルーベリージャムも送ってくれた。

何の添加物も入っていなくて砂糖だけで作られているから早く食べるようにと言われていて、毎日パンの上に山盛りにして食べている。そのなんとしあわせなことか。ブルーベリーも本当に大好きだ。ベリーは正義。

家族から送られてくる愛情たっぷりな品にも毎日の生活にも自分をしあわせにしてくれる豊かさがたくさん宿っているなと気づく。そしてそれに気づく度にお金や将来への不安が薄らいでいく。感謝って本当にすごいなと思う。

 

それからいまは自分をしあわせを妨げているお金のブロックをはじめとする様々なブロックをはずして浄化することに決めている。ホ・オポノポノじゃないけれど、朝晩祈りの中でそれが可能なんじゃないかと思っている。外したブロックは天にお返しする。成仏しろよ、という感じで(笑)。

 

そんなこんなで今日も食べるものにたくさん感謝をしてごはんをたべた。なんだかんだしあわせなんだな、と思う。

 

 

 

昭和30年代の特撮は言葉が美しかった

今日も今日とてお昼ごはんのお供のYou Tube動画を探した。

食事中に無音は寂しいのでいつもYou Tubeに頼っている。以前はテレビを流していたが、昼時のワイドショーは見たい内容ではないのでもうここ数年見るのをやめている。

なぜかYou Tubeは以前見たことのある動画やあまり好みではない動画を多くおすすめしてくるし、どうしてこの動画を勧めてくるのかわからないものが多いが、テレビに比べれば見る番組の選択肢は多い。ということで一生懸命iPadをスクロール(というのか?)していると「東映特撮You Tube official」の「ナショナルキッド」という番組がオススメされていた。これもなぜオススメされているのかわからないがなんとなく好奇心で見てみた。以前観た昭和の白黒番組の「忍者部隊月光」も面白かったし、これも面白いかもしれないと。

 

 

ナショナルキッドの衣装はいま見るとちょっと面白い感じだが(というかいま目の前にナショナルキッドが現れたら笑ってしまう自信がある)、ドラマ自体は大変面白かった。

インカ族が金星から攻めてきたといういまなら南米の人たちに怒られそうな設定だが、調べてみるとインカ族は「地球人の無謀な核使用を止めさせるために来襲し、地球人を宇宙の敵と決めつけて全滅させようとするようなので何もかもが悪ではないから許容範囲なのだろうか?それともインカ帝国とは何の関係もないのだろうか?

番組の長さも30分弱とお昼ごはんの間に見るのに丁度いい。続きが気になったが、UPされているのは第01話、第05話、第06話の3本だけなので第01話の続きは見られないっぽい。

 

それにしても、昔の番組を観る度に思うのだが、登場人物たちが話す日本語がとても美しい。どのように美しいかというと大人でも子役でも美輪明宏さんのような言葉を使っている。相手に対するリスペクトと気品を感じる言葉遣いだなと感じる。現代は日本語の美しさが失われていっているような気がして寂しい。

また、登場人物が大人、というか変に若作りしていないし、言葉も振る舞いも大人。どうして昔の人達はあんなにも大人だったのだろう。以前、ネットで話題になった「太陽にほえろ」の登場人物たちの年齢写真を思い出してしまった。

togetterさまより拝借

ナショナルキッド第01話の主人公旗竜作青年もきっと現代ならもっとずっと若く見える男の子が演るんだろうなあ。ちなみに第01話の旗青年はあまり健康的に見えないという理由で第3部から別の俳優さんに変えられてしまったらしい。そんな理由も衝撃。知的で素敵だったのに。

 

第01話ではナショナルキッドがひとりで5〜6人のインカ族相手に戦っていたが、昔はヒーローよりも敵の人数のほうが多かったのかな。なんとかレンジャーは5人でひとりの悪人と戦っていたような……?ゴレンジャーあたりからそうなっていったのかな?特撮には詳しくないのでわからないが、多勢に無勢で戦うナショナルキッドはなんとなく正統派の正義の味方に感じてしまった。

You Tubeナショナルキッドはあと2本。これで明日と明後日のお昼ごはん時に観る動画は困らないな。

 

 

 

ミニチュアハウスとマインドフルネス

昨年、コロナ禍で家から出られないときの暇つぶしにミニチュアハウスを作ったと記事にした。

mori-meiro.hatenablog.com

 

実はあのとき紹介したものの他にもミニチュアハウスづくりに精を出していた。

その完成品がこちら。

今回は花屋さんですな。

相変わらずライトがいい雰囲気を出している。

もう少し寄ってみるとこんな感じ。

屋根の上の鳥さんとピングーはキットに含まれておらず自分でつけた。

とても小さなお花をたくさん作るのが本当に大変で、このためにハヅキルーペ的な眼鏡型のルーペが付録になったムックを買った。なぜ大変かというと乱視で近視の上に不器用だから。普通の視力があってそれなりに器用な人なら難なく作れるのかもしれない。けれど、不器用でも下手くそでもミニチュアハウスを作るのは楽しい。実はいまもうひとつ作成中なのだ。

 

私はすぐに色々考え込んでしまう癖があるし、本来はあまりポジティブな方ではないので何かの作業に打ち込むことは落ち込むことや波動を下げることを防ぐことができるのでとてもいい感じ。そういった瞑想効果を得るために以前は大人の塗り絵を取り入れたこともある。塗り絵も工作も子供の頃から好きだったし、瞑想効果も得られるなんて嬉しい限り。

 

実際、塗り絵にはマインドフルネス効果があるらしい。

yogajournal.jp

塗り絵でマインドフルネス効果を得たい場合は自分で色を選んで塗るものよりも色が指定されているもののほうがマインドフルネス効果が高いらしい。どうも思考を動かして色をチョイスするのがマインドフルネス向きではないみたいだ。ということは、ミニチュアハウスづくりではそれほどマインドフルネス効果は得られていないということか。けれども気分の落ち込みを防いでくれているし、作っている最中は楽しいし、完成品を見ていると妄想が膨らんでくるしいいこと尽くめだ。

まあ、そのせいで寝不足気味になってハスキー犬のような隈ができ、先日Twitterに上げたイラストのような不気味な顔になるのだけれど、それはご愛嬌ということで。

 

 

 

おむつ用消臭ポリ袋の使い道

このブログにはたま〜に災害に備えての備蓄のことを書いている。

mori-meiro.hatenablog.com

mori-meiro.hatenablog.com

と言っても、備蓄のノウハウとかそういうことではなくて、何かに備えて食料を備蓄しておかないといけないな〜、とか、こんな備蓄品を買った、とか。

実際には水、缶詰や乾物などの食品と紙皿や紙コップを少しローリングストックしている。

それだけではない。私はお腹が弱いしトイレが近いからトイレが使えない状態はどうしても避けたい。なので非常用のトイレと猫砂も備えている。

しかし、ある日大変なことに気づいた。

これだけあればしばらくなんとかなるかなあ、なんてトイレで非常用トイレを入れた箱を眺めながらふと頭をよぎる「電気も使えなくなるんだよな……」という現実。換気扇だってもちろん使えなくなる。うちのトイレには窓がないというのに!!!!!!

これは大変だ!においがトイレにこもりまくるだろう。トイレ内だけに収まってくれればいいが、廊下や部屋にも漏れ出してくるかもしれない。しかも私は人様よりも鼻がいい。どうしよう。お一人様テントでも購入してベランダに臨時トイレを作るべきか………。いやいや、そしたら今度はお隣の家にもにおいをおすそ分けすることになるかもしれない。っていうか、ベランダでトイレってまるで野○じゃん!!音とかにおいとか恥ずかしいじゃん!!

少しでもにおいを抑えるにはどうしたらいいんだろう?

 

そして先日、散歩代わりに近所のダイソーをブラブラしているとある商品を発見した。効果はどうかわからないが即買いした。100円だし。それがこれ。

赤ちゃんのおむつ用消臭ポリ袋。

2〜3袋購入したが、効果の程はわからない。試すには気が引けるし。

 

ところで私は自炊派である。

簡単なものしか作らないがほぼ毎日台所に立つ。しかし、夏場はすぐ生ゴミが臭くなるので肉や魚を使った料理、ネギ類を使った料理はゴミの日の前日か使用済みのジップロックが出る日にしか作れなかった。切れ端や肉や魚が入っていた容器がすぐに臭い出し、ゴミ箱の蓋を開けたときの悪臭に耐えられない。そのくらいにおいに敏感なのだ。

そして数日前にちょっとひらめいた。

「あのおむつ用ポリ袋を使ってみたらどうだろう」

 

私はその日、鶏肉やネギを使った料理を作り、いつも通り生ゴミを普通のビニール袋に入れ、それをおむつ用ポリ袋に入れてしっかり口を縛って捨ててみた。

すると、なんということでしょう!

ほとんど臭わないではないか!

これは素晴らしい!

これなら使用済みの非常用トイレを捨てても臭いがかなり軽減できるかもしれない。

ということでこのポリ袋もローリングストックにしていこうと思っている。

災害なんて起きないほうがいいに決まっているけれど。

 

 

 

さよならATOK(号泣)

先日、仕事の都合でついにMacのOSをMontereyにバージョンアップした。今まで渋っていたのは使えなくなってしまうアプリが出るのが恐ろしかったからだ。

今回は使えなくなったアプリはなかったな、と思ったのだが、すご〜〜〜く大事なものが使えなくなっていた。それはATOKだ(涙)。今までも騙し騙し使っていたところはあったが、それがついに使えなくなってしまった。システム環境設定からATOKを復活させようとしたが、バージョンが古すぎてダメだった。私はずーっとATOK使いだったのでこれが恐ろしく不便だ。ことえりは終了しているはずだから何ていうIMEかはわからないが、この子の使い勝手というか私との相性があまりよくない。なんていうか、先回りしておせっかいな変換してくるのでかなりしんどい。一度変換した漢字を覚えてくれないのもしんどい。

しゃーない、買い直すか、と思って調べると何とATOKもサブスクになっているではないか!

世の中なんでもかんでもサブスクだけど、みんなサブスク地獄に落ちたりしないのかなあ。自分はAmazonだけでも primeと Kindle untitledがあるし、Apple系ではiCloudがあるし、そうそうYouTubeもpremiumだわ。その上ATOKまで抱えたらもう、ああ。頭痛いわ。

サブスク便利ですよ〜といろいろな企業が勧めてきて、単体で見れば便利なんだろうけど消費者の財布はパンクしないのかなあ?みんな本当にどうしているんだろう?

けれどもいまのままでは仕事の能率が下がりっぱなしなんだよなあ。

 

ということでとりあえずGoogle日本語入力をダウンロードしてみた。

……………。

…………………。

私にとってはATOKが神だということがわかった。けれどもキーボードの使い方はMontereyの子よりも使い勝手がいい。しばらくGoogle 日本語入力でやってみて、それでもダメだったらATOKをサブスクするか。

けれども、MontereyのIMEにもいいところはあって、絵文字や顔文字が変換できるのはブログを書く上でいいなと思った。Google日本語変換は顔文字は豊富だけど絵文字は変換できない。そのあたりはIMEを使い分けるといいんだな。来週くらいにはATOKぽちってそうだけどな。

 

 

【映画】友だちのうちはどこ?

映画情報

監督/脚本:アッバス・キアロスタミ

製作国:イラン

公開:1987年(イラン)、1993年10月(日本)

 

茶々丸的評価:⭐️⭐️☆☆☆

 

あらすじ

イラン北部、コケル村の小学校。宿題をノートにやってこなかったのが3回目となったモハマッド=レダ・ネマツァデは先生にこっぴどく怒られていた。モハマッドは紙切れに宿題をやってきたが、どうやらそれでは許されないようだ。隣の席で友だちが叱られて泣き出した様子を見守る主人公のアハマッドも不安そうに怯えている。モハマッドは次にノートに書いて来なかったら退学だと言われていた。

アハマッドは家に帰って宿題をやろうと鞄を開けると自分のノートと一緒にモハマッドのノートまで持って帰ってきてしまったことに気づく。このままでは自分のせいでモハマッドが退学にさせられてしまう。アハマッドは遠く離れた村に住むモハマッドの家にノートを返しに行こうと決意。母の目を盗んでいくつも丘を越えた先にあるモハマッドの家を目指す。ただ、アハマッドはモハマッドの家がその村のどこにあるのかを知らなかった……。

 

この映画はずっと昔、図書館からVHSを借りたが貸出期間中に観ている時間がなくて1分も見ずに返却してしまった。それがAmazonプライムにあったので観てみようという気になった。

この映画に対する事前情報は何も持っていない状態で、ただ何となくほっこりしたいな〜と思って観たのだった。

だが!!!!

ほっこりしない!ぜ〜んぜんほっこりしない!

人生のつらさと理不尽さを感じる映画だった。

まあ、数々の映画賞を受賞した作品ではあるのだけれども、これは異文化にかなりの理解がある人じゃないと心穏やかに観ることができないと思った。

まず、この映画に出てくる大人たちは全員子どもの話に耳を貸さない。アハマッドは最初ちゃんとお母さんに「モハマッドにノートを返しに行きたい」と訴えるのだが、お母さんはアハマッドが宿題をやらずに遊びに行きたいから嘘を言っていると思っているのか全くアハマッドの言葉に耳を傾けない。さっさと宿題をやれと言っておきながら宿題をやっているアハマッドに赤ちゃんの面倒を見ろと言ったりタライを取ってこいと命令したり、集中して宿題をやらせる気もなさそう。家のお手伝いをするのが当たり前の国でありそれは正しいと思うけれど、何だか言っていることとやっていることが一貫していない。そして、友だちを思うアハマッドはお母さんの目を盗んでモハマッドの村に出発することになってしまう。だって自分のせいでモハマッドが退学になるなんて耐えられないから。

そして日本に住む我々の常識だったら遠く離れた村に行くのならバスか何かの乗り物に乗って行くと考えるところだが、そこはイラン。何とアハマッドはランニングでいくつも丘を越えてモハマッドの住む村を目指すのだ。無限体力か。

モハマッドの家がどこにあるのか、出会った大人たちに聞いていくのだが、親切に教えてくれる人はあまりいない。教えてくれても「あっちだよ」とか、そんな感じ。

やっとモハマッドを知っているおばさんに会うが「さっきコケル村に出かけて行ったよ」と言われる。そこはアハマッドの住んでいる村だ。アハマッドは大至急自分の村に引き返すとそこで「ネマツァデ」と呼ばれるおじさんに出会う。ネマツァデはモハマッドの苗字だ。そこでアハマッドは「モハマッドのお父さんですか?」と尋ねるが、この男はアハマッドからモハマッドのノートを無理やり取り上げるとそこから何ページも紙を破り取ったくせに自分がモハマッドの父かどうかという問いには一言も答えずにロバに乗って去って行こうとする。追いかけるアハマッドはまたまたモハマッドの住む村に来た。そしてそこでその男がモハマッドのお父さんでないことを知り、またアハマッドの家探しの放浪が始まる。

結論を言うとアハマッドはモハマッドの家にたどり着いてノートを返すことはできなかった。

その代わりアハマッドはモハマッドの宿題を代わりにやり、翌朝先生に見せる。先生はアハマッドがやったモハマッドの宿題をみてよくできましたとまるをくれる。要するにアハマッドがやったということはバレなかった。あんなに厳しく怒っていた割には本人がやったかどうかには気づかない。アハマッドの苦労は一体何だったのだろうか。

映画中にはアハマッドのおじいさんも出てきてアハマッドに理不尽な用事を頼むが、それは躾の一環だという。言われたことはどんなことでも1回で聞くように、たまにはゲンコツをくれて教え込むのがいいのだそうだ。その訳は、おじいさんが若い頃、道路工事をしていた人が工事が終わったら道路が5センチ(だったかな?)短くてその分の工事を後でやることになった。その友人の賃金は外国人労働者の半分だった。どうしてなのかおじいさんが尋ねると友人は「外国人は言われたことを1回でやるから。わしらは2回言われないとやらないから」と答えた。それで、そんなことにならないようにおじいさんは自分の息子も孫も言うことを1回で聞くように躾けるためにわざと理不尽な用事を言いつけるらしい。

けれども、どう見てもここに登場する大人たちに比べてアハマッドやモハマッドなど子どもたちの方がちゃんと相手のことを考えて行動している、心優しい人に見えるんだよな。大人たちは子どもの言うことに耳を貸さないのがいいことだと、それが結果として自分のためにも子どものためにもなるんだと考えているように見えてしまって。おそらくそれがイランでは正しいことなのだろう。

私がこれほどまでに大人が子どもの言葉に耳を貸さないことに腹が立つのは多分、自分も子どもの頃に同じような目に遭っていたらだと思う。例えば、家で水道を使っていないのに水道メーターがクルクル回っていることがあって、どこで水漏れしているのか大人たちが探していたことがあった。幼い私は庭の一角から水がピューピュー出ているのを知っていたのでそれを一生懸命伝えたのだけれど「チビは黙っていなさい」「家の中で遊んでいなさい」と誰も私を信じてくれなかった。小学生の時には「昨日、具合が悪くて宿題ができませんでした」と朝、担任の先生に言うと、先生は「わかった」と言ったのにいざ授業が始まったら「どうしてやって来なかったんだ!」とみんなの前でビンタをかまされた。そういうことが度々あった。なんか、そういう昔のちょっとしたいや〜な記憶がいろいろと蘇ってきてアハマッドの周囲の大人たちにも妙にむかついてしまったのだ。そう考えると日本もイランも変わらないのかな???

最後、代わりにやった宿題がバレなかったことでアハマッドが変な要領を覚えければいいなと思ってしまった。この時は上手くいったけれど、次は友だちのノートを持ち帰らないようにしようとだけ学んでくれればな、と。それともイランの常識では騙して自分が損をしたり苦労しなくて済むのなら騙した方がよいと学ぶことが正しいことなのだろうか。

気候や風土が違えば文化も常識も生き方も変わる。そんなことを思い知らされた映画だった。