日本語は美しい
日本語は美しいと思う。
子どもの頃から言葉に胸を震わせることがよくあった。
中学生の頃は国語(現国と読んでいたかどうか忘れた)の教科書で
不来方の お城の草に寝転びて 空に吸はれし 十五の心
という石川啄木の短歌に心を奪われた。
故郷にも松本城という質実剛健な城があるので余計に啄木の心がわかったというか、同年代だけに共鳴するものがあったというか。
本のタイトルにもよく胸を打ち抜かれた。
堀口大學訳詩集「月下の一群」
ああ、なんと美しいタイトルなんだろう。
もう1冊、サガンの「愛と同じくらい孤独」。これは原題は「REPOSES」。休息するという意味だ。これは言葉の美しさ以上に19歳の時に処女作「悲しみよこんにちは」で一躍文壇の寵児となり破天荒な人生を送ったサガンを思い編集者の力を感じた。
古い洋画の邦題も美しい言葉だと思うものがたくさんある。映画の邦題には原題と違うものが多いと聞くが、客となる日本人の心を射抜かなければならないのだからそれでいいのだと思う。ぱっと思いつくものだけあげてみる。
「風と共に去りぬ」
「誰がために鐘が鳴る」
「陽の当たる場所」
「慕情」
「雨の朝巴里に死す」
「巴里のアメリカ人」なんて、パリを漢字にするだけでもう格好いい。
万葉集にも本当に本当に素敵な歌があるのは多くのみなさまもご存じだと思う。
天の海に 雲の波立ち月の船 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ
これは柿本人麻呂が詠んだ。
命が震えるほど美しい。月の舟に乗って天の海に漕ぎ出す人麻呂が瞼に浮かぶ。
「星の林に月の船」私はこの句のように○○と□□のようにふたつの言葉が並ぶものも好きだ。
「東の地平・西の永遠」
萩尾望都作品は内容もさることながらタイトルも詩的だ。
「活字の林をさまよい 思考の泉のほとりにたたずむ」
という言葉を見たときには雷に打たれたようにしばらく石碑の前から動けなかった。当時の私はその情景をありありと頭の中に描くことができた。
自分もこうなりたいとずっと思いながらそうなれないでいるが、少しでも椋鳩十に近づきたいとブログタイトルを「活字の森 思考の迷路」とした。
鳩十先生のように思考の泉のほとりまでまだたどり着けないでいる。