活字の森 思考の迷路

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愛の目盛りー

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昔から不思議に思っていることがある。

犬や猫などペットを多頭飼いしている人はどの個体にも平等に愛を注げているのだろうか?

それとも一番好きな子がいたり、お気に入りの順位があるのだろうか?

子だくさんのお母さんはどの子どものことも平等に同じだけ愛しているのだろうか?

自分のお腹を痛めた子どもだけれど一番好きな子と苦手な子がいたりしないのだろうか?

私は愛情の幅が狭いのでそこのところがよくわからなくて謎だ。

そんな自分は動物を飼うならば多頭飼いではなく1匹に心血を注ぐと思う。複数の子に平等な愛情を注ぐ自信がない。それとも、大勢の子に囲まれてしまえば考え方は変わるのか。かわいいなと感じる子に囲まれれば愛情とは無限に湧き出てくるものなのか?

 

恋愛でも女の子は「私だけを愛して〜」と考える子が多いと思うし、男性はあちこち目移りしてしまう人も多そうだ。先入観ではなく種の保存という本能があるのでそうなるのではないかと考える。ただ、草食男子が数を増やしているいまはもうそんな時代ではないかもしれない。となると、「私に振り向いてくれない」という悲しみに変わるのか。まあ、それはまた別の問題としておいとくとして、誰かの愛をひとり占めにしたくて「私だけを愛してほしい」とか「私と仕事どっちが大事なの!?」なんて思い詰めてしまう人はとても苦しいだろうなと想像する。

 

一体、愛情の分配ってみんなどうしているのだろう?

 

そこで、愛情を一定の分量しかないものとして考えてみた。

ここで、個人個人それぞれの愛には目盛りがついていて計測可能なものと仮定する。目盛りは0〜100まで。

100ある愛の中を「本人(自分を愛する)」「父」「母」「きょうだい」「恋人」「仕事」「趣味1」「趣味2」「友だち」「推し」………などと細分化していったら自分に割り当てられる愛の分量が低くなる。恋人が多趣味で仕事人間で付き合いも抜群にいい人で友だちの数も多く家族思いだったら悲劇だ。多分「アタシのことなんてどうでもいいのね、ヨヨヨヨヨ……」(古い表現w)と悲嘆に暮れながら過ごさなければならなくなる。

子どもとしてお母さんの愛を計ってみても「おとうさん」「お兄ちゃん」「ちい兄ちゃん」「お姉ちゃん」「妹」「おじいちゃん」「おばあちゃん」「ペットのミケ」……なんて区切っていったらやはり自分に割り当てられる愛が少なく感じるだろう。

愛を区分けすると愛してほしいと願っている側は大変苦しいのではないだろうか。

ということで、愛の目盛りを人や物事によって区切るのはかなり精神的に悪そうであまりオススメできない。

 

もうひとつの愛の計測の考え方、体温計や温度計のように愛だけを計るというのはどうだろう。いつも仕事や趣味で忙しくてなかなか逢えない彼も、自分と一緒にいるときには自分にだけ愛情を注いでくれればそれでよしとする考え方だ。

それならば、ペットを多頭飼いしていても、タマちゃんをなでなでしているときにはタマちゃんに100%の愛、ポチくんをなでなでしているときにはポチくんに100%と考えられそう。一度に相手にするときには多分、その集団全部に愛情が注がれているだろう。いや、わからないけれど、そう考えるのが平和だ。

ここで心しておかなければいけないのは例え1対1でも愛情の目盛りはなかなか100%にはならないだろうということだ。ふとした拍子に仕事のことを思い出してしまったり家族のことを思い出してしまうことだってある。何しろ人間は1日に6万回思考するといわれているのだから。80%以上の愛を注いでもらえれば満足できそうな気がする。もしも恋人の愛の値が50%以下だったら別れて他の相手を探すことも考えた方がいいかもしれない。

まあ、ここであげた80%や50%という数値に根拠はなく、感覚的なものでしかないけれども。

それでも、もしもいまこのブログを読んでくれている人で愛が足りないと悩んでいる人には、愛情のスケールを細分化しない方をオススメしようかなと思う。