活字の森 思考の迷路

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村井理子「兄の終い」を読んで

村井理子さんの「兄の終い」を読んだ。

大変失礼ながら存じ上げない作家さんだったが、以前Kindle日替わりセールか何かで上がってきたときに何となく心惹かれてポチッた。

何に心惹かれたかというと

一刻も早く兄を持ち運べるサイズにしてしまおう。

憎かった兄が死んだ。残された元妻、息子、私、……怒り、泣き、ちょっと笑った5日間」

という帯の言葉だった。

兄を持ち運べるサイズか……しかも、一刻も早く。しかもこれは小説ではなく著者の村井さんご自身の体験なのだ。何だか読まないわけにはいかないと思った。

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2019年、村井さんは宮城県塩釜市塩釜警察署からの電話で由井市の肉親である兄の死を知らされた。しかし兄は周りに迷惑ばかりかける人で、村井さんとも折り合いが悪くもう何年も会っていなかった。第一発見者は兄と2人で暮らしていた小学生の息子・良一くん。15時頃学校から帰宅した良一くんが室内で倒れている父を発見し救急車を呼んだという。お兄さんは脳出血で室内で倒れ即死だったようだ。

とにかく、計画はこうだ。

遺体を引き取ったら、塩釜署から斎場に直行し、火葬する。一刻も早く、兄を持ち運べるサイズにしてしまおう。それから兄の住んでいたアパートを、どうにかして引き払う。これは業者産に頼んで一気にやってもらう。

塩釜警察署から電話を受けて村井さんは瞬時にこう考えた。

そして住居のある滋賀県から宮城県に向かって淡々と着々と兄の終いをしていく。

力になってくれたのは兄の元妻で良一くんの母である加奈子ちゃん。加奈子ちゃんとも5年前に自分の母の葬儀で会って以来ということだ。だがこの2人は実に淡々と兄の始末をつけていく。淡々とと書いたが本人たちにとっては大層な修羅場だったに違いない。遺体の引き取りもそうだが、散らかって不衛生でありなおかつ兄が倒れた場所に吐瀉物などが残されたアパートはなかなかの大惨事だ。そこをすぐに引き払わなければならない。また、一時的に児童保護施設に保護されている良一くんの今後の生活も早急に手を打たなければならない。しかし、村井さんが大変理性的なため読み手はこのヘビーな状況にグイグイ引き込まれていく。

兄と兄の人生を片づけるのはもちろん、この5日間の修羅場を通して村井さんは自身の中にあった兄との上手くいかなかった関係も解消させていく。

 

私は友人や家族との永の別れがかなり多いのでこのような「死」を扱ったテーマの本に惹かれる傾向がある。そして、村井さんほどの修羅場は経験していないが家族の葬儀はどれもこれも大変だった。昔、伊丹十三監督が「お葬式」という映画で初めて葬儀を出す家族をコミカルに描いたが、本当に悲しみに浸る暇もないほど忙しく、ドタバタで、そしてコミカルだった。

そんな大変な葬儀をいろいろ経験したが、親族だというのに葬儀にノータッチだったこともある。父の死だった。父は客死だった。そしてその時はすでに母と離婚して何年も経っていた。これが私が父の死にノータッチになってしまった理由だったが、父はなぜか母の連絡先を書いたメモを持っており、そのため家にその旅先の警察署から電話があったようだ。しかし、母は引き取りを拒否した。私が引き取ろうと思ったがまだ若く財力がこれっぽっちもなく断念。父の亡骸は別の家族に引き取られた。そんなこともあったせいでこの「兄の終い」には余計に興味が出たのだと思う。村井さんはきちんとお兄さんと物心ともに別れができたが、私は父の遺体にすら会っていない。しかし、だからといって心の整理ができていないかと問われればそれはない。当時は父の葬儀にも携われないことに情けなさを感じたが、毎日回向することで心の傷は残らなかった。ただ、父の家族は遺体の引き取りなどさぞ大変だっただろうなと「兄の終い」を読んで改めて考えた。

 

村井理子さんのお兄さんは周囲にいろいろ迷惑をかけた人だったようだが、私の周りで亡くなってしまった友人たちや家族たちは周りの人たちにまだまだ必要とされ愛されている、みんなにとってかけがえのない人たちばかりだった。いい人の方から先に死んでしまうんだなと訃報を受け取るたびに思う。来世に必要とされたからなのか、いい人たちだからこの地球よりももっとずっといい場所に神様から招待されてしまったのかどうかはわからない。しかし、私のように養う家族もなく取り立てて重要なポジションで生きているわけでもない人間はピンピンしている。どうしてなのだろう。私はめっちゃ長生きしそうな予感さえする。不条理だ。そして私は訃報を受け取るたびに家族からも「お前の友だち死にすぎ!」と恐れられる。どうしてそんなにお見送りをしなければならないのかもよくわからない。

けれど、それぞれの死にそれぞれの人生の物語がある。村井さんのお兄さんもこのエッセイの中でどうしようもない部分が描かれているが、

 

今でも兄を許せない。でも、そんな兄の生き方を許し、肯定するたった一人の誰かに私がなろう。

と村井さんは思えるようになった。それは兄のアパートのある多賀城で会った心優しい人々や元義姉の加奈子ちゃん、一緒に塩釜まで行ってくれた元小学校教員の伯母の存在が大きかったのかもしれない。兄や母との確執、兄の死にまつわるなかなかの修羅場だが、兄の終いをともにしてくれた人々の心の温かさに村井さんは助けられたのかもしれない。

 

私もひとり暮らしだ。もしも死んだら警察から家族に連絡が行くことは村井さんのお兄さんと同じだろう。けれど、村井さんほどの迷惑を家族が被らないようにいまから部屋の掃除はもちろん整理整頓をしようと思う。明日から思い切った断捨離に入ろう。