活字の森 思考の迷路

読んだ本や考えたことなど徒然なるままに書いていきます

人生の法則を自分で見つける

今日は仕事で電車を使った。

行きも帰りも電車内で様子のおかしいおばあさんに遭遇した。どちらの方も大声でずっと文句を言っていた。

行きで遭遇したおばあさんは、一緒に乗り込んできたおじいさんにずっと大声で文句を言っていた。

帰りに遭遇したおばあさんはひとりでずっと大きな声で文句を言っていたのだが、しばらくすると向かいに座っていたお嬢さんに絡み出した。お嬢さんが自分の長い髪の毛を触る仕草が気に入らなくて「電車内で髪を触るなって!不潔だよ!アンタみたいな不潔な人のせいでコロナが収まらないんだ!」とわざわざ席を立ちお嬢さんの目の前に移動して怒りはじめたが、お嬢さんは無視して髪をいじり続けていた。なかなかの強者である。私はおばあさんの隣に座っていたのだが、私のことはまったく目に入っていないようだった。おばあさんはお嬢さんに絡み終わると再び私の隣に座ったが、今度は「コロナはもっとこれからどんどん酷くなるよ!!これまでなんてもんじゃないよ!!」と叫び始めて、思わず「まさか、予言者!?」と思ってしまった(笑)。

 

どうして行きも帰りもこういうおばあさんの隣に座らなければならなかったのか?

ついていない運勢だったのか?

いや、どちらのおばあさんも私のことは眼中になかったし、自分は被害に遭っていないのだから充分に守られているということなのか?

 

なんて、こういうめずらしい出来事に遭うとついついその「意味」を考えてしまう。

そして出来事とそのときの自分の運勢を観察していくと何か法則性のようなものが見つかるような気がする。

今日、このふたりのおばあさんに遭遇した出来事は今日の自分に起こったことには結びつかなかったけれど。明日も遭遇したらやはり何かあるのかな?とは思う。

 

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そんな風に自分に起きる出来事の法則性を何年か観察しているうちに、ひとつだけ気づいた法則がある。それは、水をこぼしたり何かの拍子で自分に水がかかってしまうときには、自分の行動があまりいい方向に向かっていない、というものだ。水が教えてくれているのだろうかと思うほど、プチ水難が起きるとその後数時間のうちによくない目に遭う。なので買い物に出かけようかというときにコップの水が何かの拍子にこぼれてしまうと外出を止めてしまうようになった。そのくらいプチ水難のあとは嫌な目に遭っている。危険を教えてくれているのは水神様かなとか龍神様かなとかいろいろ考えたが、最近、水には記憶があるとか意思があるとか、水には人間の役に立ちたいという強い気持ちがあるという話を耳にした。もちろんスピリチュアル界隈での話だ。

 

水は人間の役に立ちたいと思っていると言っていたのは小林正観さん。

重度のアトピーで苦しんでいる人が、摂取する水分全て(水、お茶、お味噌汁などなど)に「細胞から元気にしてくださってありがとう」と言って飲んでいたら数ヶ月(1〜2ヶ月だったかな)できれいさっぱり治ったという。ひどかった顔のアトピーもすっかり治ってしまい、数ヶ月ぶりに再会したときには正観さんにはその人が誰だかわからなかったという。何でも実験しなければ気が済まない正観さんはそのときは健康だったので「若返らせてくれてありがとう」と言ってから水分を摂取するようになったら白髪がなくなったという。そういえば正観さんの写真は御髪が黒々フサフサとしている。正観さんは「これをガンの人がやったら治るのではないか」と言っていたが、私はまだそれを実験してみた人を知らない。

 

そんなわけで、じゃあ私も「若返らせてくれてありがとう」を試してみようと思っているのだが、大抵はすっかり忘れて飲んでしまう。そして飲み終わってから「あっ、ありがとうと言い忘れた!」と気づくことが多い。これでは実験にならないかな。それとも思い出したときにだけでも言っていたら何か結果が出てくるのかな?もう水のタンクに「ありがとう」と書いておこうかな。

—— いや、そういえば、若返っている途中なのかどうかはわからないけれど、最近すんなり眠れるようになった。かなり重度の不眠症で悩んでいたのに。暁を覚えないのは春眠であって秋眠ではないし、冬眠まではまだ先だし。若返るにはまず眠れるようにしなければいけないと思っていたし。睡眠不足は覿面にお肌に出るから。それを考えると水に対して「若返らせてくれてありがとう」と言うのは効果は出てなくはないのかもしれない。そう思っておこう。自分がよい方向に行くのならばプラセボでもいいのだから。

それに、いつも自分に危機が迫っていることを教えてくれる水が、自分の体内でも頑張ってくれていると思うとなんとなく嬉しい。お水さん、いつもありがとう!