活字の森 思考の迷路

読んだ本や考えたことなど徒然なるままに書いていきます

【読書】神との対話1

人生のどん底にいた著者のニール・ドナルド・ウォルシュは1992年春、神に宛てて手紙を書いた。人生の理不尽に対する恨みつらみ、不平不満を包み隠さず、なぜ自分の人生はこんなにもうまくいかないのか、神にたくさんの質問をぶつけた。最後にした一番大きな質問は「こんなにもがきつつけていなければならないなんて、わたしがいったい何をしたというのか」というものだった。回答のない苦々しい質問を書き終えてペンを置こうとしたが、ニールの手は何者かに押さえつけられているかのように紙の上に乗ったままで、ふいにペンが勝手に動き始めた。神がオートマチック・ライティング(自動書記)でニールの質問に答え始めたのだ。これが、「神との対話」の始まりだった。

 

スピリチュアル、引き寄せの法則好きな私は以前からこの本の存在を知っていた。

しかし、なぜだか読む気にならず手にとったことはなかった。

それがどうした気まぐれかKindleでダウンロードして読み始めることになった。

ところが、読み始めたはいいが、最初は全く頭に入らなかった。

こんなに読み進められない本は「なまけ者のさとり方」以来だなあ……などと思いつつ、なんとかして読み勧めていくとそのうちにすらすらと読めるようになり、毎日30分くらいずつ読んでいたのだが、続きを読むのが待ち遠しくなった。

この本を読んで感じたことをメモ書きの要領で書いていく。

 

神は言う。

「ひとの思考も行動もすべて、愛か不安か、どちらかを根拠としている。ほかの考えはすべて、この二つから派生したものだ。単なるヴァリエーションで、同じテーマが変化したものにすぎない」

 

これは目からウロコだった。言われてみれば確かにそうだ。愛はなんとなくわかりやすいが、不安というのは頭になかった。確かに、戦争も「他国に出し抜かれる」「他国にやられる」という不安が出発だろうし、親しい人とのケンカも不満も自分を認めてもらえないことへの不安のヴァリエーションかもしれない。

 

私自身もそうだが、日常生活で不満を抱くことはたくさんあると思う。こんなはずじゃなかった、もっと恵まれた人生がよかった……そんなふうに思うこともある。

しかし、引き寄せの法則を知った私はそういう考え方こそが「もっと恵まれた人生がよかった…」と思い続ける人生を引き寄せるのだということをわかっている。しかし、わかっていても状況が逼迫してくるとどうしてもいつの間にかそんな思考になってしまうこともある。

そんなときにハッとした神の言葉がこちら。

「自分が想像したなかで、楽しめず、祝福できないものがあったら、選びなおしなさい。新しい現実を呼び出しなさい。新しいことを考え、新しい言葉を口にし、新しいことをしなさい。立派にやりなおせば、世界はあなたについてくるだろう。「私が生命であり、道だ。ついてきなさい」と言いなさい。これが神の意志を「天国と同じく、地上にも」実現させる方法だ」

 

ああ、そうか。いつでも、どんなときだって選びなおせばいいんだ。

私はこの「選びなおしなさい」という言葉にものすごい勇気をもらった。私は選びなおす。

そしていま、選びなおしている最中にいる。

 

「人生を「上向かせる」には、まず人生についての考えを明確にしなければならない。どうなりたいのか、何をしたいか、何が欲しいのか、よく考えなさい。はっきりするまで、考えなさい。そして、はっきりしたら、今度はほかのことは考えず、ほかの可能性を想像しないことだ」

 

そうなのだ。ほかの可能性を想像するからなりたい自分に、なりたい状況になかなか近づかないのだ。しかも、理想よりも不安のほうがなぜか想像しやすいし、そこに感情が入り込みやすい。引き寄せの法則は「考えた通りの現実になる」のではなく「感じている感情通りの現実になる」法則だから「ほかの可能性=不安」になるのはかなりよろしくない。

だからといって心配する必要はない。不安を感じるときには自分が間違った方向に行っているというサイン、感情のナビゲーションシステムが働いているときだからだ。

不安が頭をもたげて仕方ないときも人間だからある。そんなときには自分が熱中できることをやり始めればいい。絵を描くのでも、手芸でも、ペットと戯れるでもなんでも。

 

「あなたが考え、語り、行動すると、具体的な現実になる」

 

「創造が具体化する前に、創造に感謝することだ。願いは当然かなえられると信じることだ。そう信じてもいいどころか、信じたほうがいいのだ。それこそが悟りの確実なしるしだ。すべての<マスター>はあらかじめ、ことが成就することを知っていた」

 

考え、語り、行動することが現実となる。

これは東洋の仏法と共通する考え方だ。仏法には「身口意の三業(しんくいのさんごう)」というものがあると聞いたことがある。

人間のあらゆる行いが業(カルマ)を作り出す。これを体で行うもの(身業)、発する言葉(口業)、心で感じたり考えたりすること(意業)に分けたものが身口意の三業で、悪いことを考えて、悪いことを言って、悪い行いをすると悪い現実を作り出すよ、といった意味になるかと思うのだが、東洋でも西洋でも神でも仏でも現実創造システムに差はないんだなと感じた。

 

そして、私がこの本で一番おもしろいなと思ったのは、神様が地上の宗教に対して感じている不満だ。

「ばかにしているのは、あなたがたのほうだ。あなたがたは、わたし、すなわち神が本質的に不完全な存在を創りながら、完全であることを要求している、完全でなければ地獄に落とそうとすると言う。

それから、世界が始まってから数千年したところでわたしが態度をやわらげ、これからは善である必要はない、善でなかったときに悔いて悲しみさえすればいい。そしてつねに完璧でありうる神のひとり子を救世主として受け入れればいい、そうすれば、完璧さを求めるわたしの飢えは満たされると言った、と言う。あなたがたは、私の子──完璧な神のただひとりの子──があなたがたをそれぞれの不完全さから救った、私が与えた不完全さから救ったと言う。言い換えれば、神の子は父である神からあなたがたを救ったことになる。これが、あなたが、そしておおぜいが考えている神の行いだ。さあ、ばかにしているのはどちらかな?」

 

たしかに、神は自分に似せてというか自分のコピーとして人を作ったのに、完璧じゃないから罰を与えると思われたら、人間が神の価値を侮っているというか、貶めていると上に感じられても仕方ないよな、と思う。

この本の神は自分を知るために、さまざまな経験を体験するために自分と同じもの(人間)をたくさん作って送り出した。

なので、本質的には善や悪も存在しないという。地獄という存在もないと言う。

そんな考え方を受け入れられない人は多いかと思うが、私はすんなりと腑に落ちた。

 

神様は人間に完璧を求めていない。

いまある状態で完璧なのだと思っている。

いま決してうまくいっていない状態の人に対してもその経験をするためにその人は存在しているのだと受け入れる。そしてそのうまくいっていない状況から抜け出したいのならば抜け出せるように「選びなおしなさい」と助言する。どうしたらもっとその人が願った通りに生きられるようになるのかアドバイスをする。

それなのに、聖職者や信仰を持つひとたちは神様のお眼鏡にかなった行動をしないとバチが当たるよ!と言う。神様は空から見ていて情けないだろうなと思う。

 

「あなたがたは僧侶やラビ、牧師、教師のもとへおもむく。彼らは自分の心のなかの声に耳を傾けてはいけないと言う。いちばんひどいひとたちは、あなたがたをおどし、おびえさせて、直感的に知ったことを捨てさせようとする。彼らは悪について、悪魔について、魔物について、悪霊について、地獄について、呪いについて、考えつく限りのあらゆる恐ろしいことを語る。そしてあなたがたが直感的に知ったことは間違っている、慰めを見いだすべき唯一の場所は彼らの思想、考え、教義であり、彼らが定義する正邪であり、彼らが考えるあなたがたの姿であると説得する」

 

確かに、神は聖職者によって都合のいい存在に作り変えられているような気がする。

これは宗教だけでなく共産主義とかそういった思想信条もやっていることは同じだ。

 

 

この本の解説をお書きになった田口ランディさんはニール・ドナルド・ウォルシュに直接インタビューし、何度か彼の状態が変化し、口調が変わる様を目撃している。

 

特にウォルシュ氏の口調が変わったのは「人間の覚醒」について触れたときだった。

「本当に世界を変える時期に来ている。今のような状態で私たちはずっと生きていくことはできない」

 と、彼は強い口調で断言したのだ。威厳に満ちた低い声だった。ウォルシュ氏は終始ソフトで柔らかい口調で話す。断定形は極力避ける。だからこそよけいに口調の変化が際立ったのだ。

 もし、彼と対話をしている神が、彼の言葉を借りて私の前に顕現しているとするなら、その神様はけっこう厳しそうで怖いな、と思った。

 

そして、田口ランディさんはこの神様は「自分に直接話しかけないし、出て来てもちょっと威張っていて怖い」しランディさんには「お節介すぎる」ということでこの神様のことは好きではないという。アドバイスは受けるけど、言いなりにはならない、というスタイルのようだが、解説を書く人がここまで批判的(?)なのもめずらしくて面白いと思った。

確かに、ランディさんが書かれていたようにグローバリゼーションの考え方が強い神様の思考は日本人には受け入れがたいというのもわかる。

けれども、元来人の話を聞くのが好きな私はこの神様もちょっと好き。もっといろいろな話を聞きたいなと思う。人生について、生命の真理について、宇宙について、その他のもっと下世話なことでも、神様はどんなふうに考えるのだろう、と。