活字の森 思考の迷路

読んだ本や考えたことなど徒然なるままに書いていきます

ジェンダーレストイレと乙女の恥じらい

news.yahoo.co.jp

 

現在、世の中を「ジェンダーレストイレ」なるものが騒がせている。

「誰ひとり取り残さない」と謳っているが女性は取り残されている。その問題点については大勢の論客たちが発信しているのでここでは書かない。

けれど、私はこのジェンダーレストイレのニュースを見て「恥じらい」というものについて考えてしまったので、そのことについてつらつら書いてみようと思う。

 

日本は恥の文化だと書いたのはアメリカの文化人類学者ベネディクトだった。あ、日本は恥の文化って「日本の文化は恥ずかしい」という意味ではありませんよ、念のため。

日本は恥の文化というのはベネディクトが著書「菊と刀」で用いた文化類型で、西洋は個人個人が良心による内面的な罪の自覚に基づいて道徳的な行動を取る「罪の文化」、日本人は他人からの非難や嘲笑を恐れて自分の行動を律している「恥の文化」、だと考察したもの。

この考え方だと西洋人は人が見ていようが見ていまいが自分が罪を犯してしまえばその罪に悩むのに対し、日本人は人が見ていなければどんな行いをしようが恥ずかしくないし思い煩わない、ということになる。これだと日本に昔からあった「お天道様が見ている」という道徳観がまる無視されているような気がするが……。

というか、私がここで書きたい「恥じらい」はこの「恥の文化」のこととも違って、普通に女の子や大人の女性が感じる「恥じらい」についてだ。

 

昔、中国のトイレには個室などなく、ただ単に長い溝があり、人がいようがいまいがそこをまたいで用を足すと聞いた。車の縦列駐車のように自分以外の人と並んで用を足す形だ。要するにノープライバシー。

韓国でも家のキッチンに便器がある家の写真というものをネットで見たことがある。

中世ヨーロッパでは壺の中に用を足してそれを窓から捨てていた。だからそれを踏まないようにハイヒールが発達したなんて話もある。

そんなわけで、海外では昔から排泄にも排泄物についてもそれほど「恥じらい」はなかったのではないか。

 

一方、日本では昔からやんごとなきお方が用を足すときには水を入れた瓶の中に小石を落として音をごまかしていた。

江戸時代にはおならの音を「私がしました」と身代わりになってくれる「屁負比丘尼(へおいびくに)」という職業もあったらしい。その江戸時代にはある女性がお見合いの席でおならをしてしまったことを苦にして自ら命をたってしまったという悲劇があったという。

現代においてもデパートなどの共同トイレの個室に設置してある「音姫」はなくてはならない存在だ。女性しかいない女子トイレでも「音姫」は必需品。

ちなみに、「音姫」登場前の時代の女性たちはトイレットペーをわざと大きな音を立てて巻き取ったり、水を流しなら用を足すことでなんとかごまかそうと苦心してきた。

 

何がいいたいのかというと、日本の女性は何世紀もの間、排泄することにものすごく恥じらいを持って生きてきた、ということだ。それはもうDNAに刻まれているし、立派な文化だと思う。日本が世界に誇っていい乙女の恥じらいの文化だ。それが多様性だと思う。排泄に対してオープンな人も否定されない、恥じらいのある乙女も無視されない、そういうのが本当の多様性ではなかろうか。

海外のオープンさもそのお国に行けば素敵なことだと思う。

ジェンダーのことで差別される人が出るのもいけない。

けれども、日本の乙女の恥じらいをいま突然急に蹂躙するとはどういう了見なのだろう。乙女が恥じらうところを見て喜ぶ変態さんたちなのだろうか。

一部のLGBTのみなさんのために日本の大勢の乙女の恥じらいは蹂躙されてもいいというのか。ジェンダーレストイレを普及しろとか進めている政治家とか偉い人って、ご自分の奥様やお嬢さんが恥じらいを蹂躙されても平気なのだろうか、そんな優しくない親でありパートナーなのだろうか……とジェンダーレストイレのニュースを見たり読んだりする度に考えてしまう。

 

日本の乙女は本来可憐なのです。歌舞伎町タワーのジェンダーレストイレにはお金を稼ぐためのたちんぼさんがおられるそうだが、そういう感性の子はごく一部だと思う。

日本の乙女の中にはティーンエージャーの頃、初めてのデートのときに膀胱が爆発しそうになるまで「トイレに行きたい」と言えない子もたくさんいる。好きな男子の前でトイレに行くことに抵抗があるのだ。そういう子たちにつらい思いをしてほしくないし、これからの時代は排泄に恥じらいを感じるなと教えるのも違うような気がする。

 

そうそう、話は多少それるが、日本の恥じらい乙女は排泄だけでなく食べることにも恥じらいを感じる。そのことをいまは一体どれだけの人がわかっているだろうか。

昔、そんなことがよくわかるエピソードがあった。高校時代、私の部活の後輩の女の子に好きな男子ができた。彼女の思いが本当にいじらしかったので、周囲の友だちのバックアップもあってなんとかデートにこぎつけた。男の子は「デートのときに一緒にランチを食べよう」と言ってくれた。本当なら有頂天になって喜びそうなものだが、彼女はそれで大きく悩んでしまった。

「どうしよう、どんな顔して食べればいいんだろう」

と。どうやら男の子はピザかハンバーガーを食べに行こうと言ったらしく、彼女は

「そうじゃなくても食事だけでも恥ずかしいのに、そんな大きな口開けて食べるものなんて、どうしていいかわからない」

と涙目になりながら部室で悩んでいた。

「じゃあ、別のお店にしてもらったら?」

と誰かが言うと

「せっかく選んでくれたお店なのに、嫌だなんて言えない……」

「じゃあ、いまから食べる練習すれば?」

と言えば、本当にそうしそうな勢い。

けれども、私も他の部員たちもなんとなくその子の気持ちがわかるのだった。

好きな人と人生で初めて食事に行くって、向かい合って座るだけでも緊張するのに、食べるなんて動作も加わると緊張が2倍にも3倍にもなるよね、と。

大人になれば男性と食事に行くくらいで緊張なんかしなくなるが、人生初デートの年代の乙女たちには重大な問題。そんな子たちにジェンダーレストイレなんてなおさら使わせたくないなと思ってしまう。大人のおばさんだって、女性しかいない女子トイレで「音姫」を使うのに。大人のおばさんだって男性がいるトイレで用を足すなんて嫌なのに。しかも、若い子はおばさんよりもっと犯罪に巻き込まれる可能性は格段に高くなる。いまは一部の建物のトイレだけがジェンダーレスだが、これが日本中に普及してほしくない。

 

そして、当のLGBTの方たちもジェンダーレストイレを望んでいるわけではないという。

news.yahoo.co.jp

www.nikkansports.com

otomejuku.jp

 

当事者たちの意見を吸い上げずにジェンダーレストイレを推進したりしている「活動家」の方たちは何のために活動しているのだろう?

何かの利権があるのだろうか?

利権とまったく関わりなく見返りも求めない「活動家」なみなさんはもしかしたら代理ミュンヒハウゼン症候群的な何かなのかな?

それとも当事者の思いはどうでもよくて誰かのために頑張っている自分が素敵、みたいな感じなのかな?

それとも毒親さんが「あなたのためを思って」って言うのと同じような心理なのかな?

 

何だか「多様性、多様性」と言われるようになって多様性がぐんぐんなくなってきているのが気になる今日この頃なのであった。