活字の森 思考の迷路

読んだ本や考えたことなど徒然なるままに書いていきます

「死は終わりではない」とスピリットは語る

人間は死んだらどうなるのだろう。

きっとあの世にはあの世の生活がある。

天国や地獄というものも本当に存在するのだろうか?

私は自分の心のレベルにあった世界に行く——天国も地獄も自分の心にある——という説をとっている。心がいつも穏やかなら穏やかな天国のような世界に、いつも誰かを攻撃したり意地悪しているのなら地獄のような世界に行くというように、天国と地獄は神様か誰かがしつらえた場所ではなく、魂自身が自分の心根のレベルにあった世界に行くという感じ。

死んでみないと本当かどうかわからないけれど。

自殺した人は人間が数えられないくらい長い時間地獄で苦しむとか、その人が本来持っていた寿命までの年月を自殺をくり返し続けるという説も聞いたことがある。飛び降りなら飛び降りを毎日毎日寿命だった年月まで続けるというのだ。この説は自殺の抑止にはなるかもしれないが、愛する人自死で失った人には残酷すぎる話だ。

では本当は自殺したらどうなるのか。

自殺した青年の霊が霊媒師を通した語った話がある。こちらの本だ。

 

 

実はこの本を見て最初は「やあ、ぼくはエリック。そうさ、死んだ人間だよ」というタイトルだと思ってしまったのは内緒。

 

著者のエリック・ドメフスは二十歳の誕生日を迎えた直後に自らの頭を拳銃で撃ち抜いてこの世を去ったアメリカの青年。14歳の頃から重度の双極性障害に苦しんだ果てにとってしまった行動だった。

ということでこの本はエリックのスピリットがジェイミー・バトラーという「スピリットの声の通訳者」を通して語ったものだ。共著に名前を連ねるエリーサ・ドメフスはエリックの母で、悲しみのあまりジェイミーに連絡を取り息子とチャネリングしてもらったのだ。

ということで、この本は質問に対する。エリックの一人語りで、エリックが喋った通りに現代の若者言葉で書かれている。

エリックは自殺に至る経緯から、自殺してしまったあとの気持ち、あの世の生活、そして現在の自分の役割に至るまでを赤裸々に語っている。

 

エリックは頭に向けて銃を撃ったあと、自分は

「しくじった、死にそこなったんだ!」

と思っている。しかし、混乱したまま下を見下ろすと自分の体が見えて自分が死んだことを悟る。そしてうろたえた。

「そうか、もう戻れないんだ。どうにもならないんだ。自分で決めたことだから仕方ないけど、クソっ、なんてことをやらかしちまったんだ。取り消したい!いまならいのちの大切さがわかる。もし元に戻せたら、証明してみせる!」

 

しかし、エリックはもう戻ることは出来なかった。

葬儀で自分をほめてくれる友人たちの言葉を聞いて

「ぼくが生きているときは、その手の話を聞いたことがなかったから、なんで、生きている間に話してくれなかったんだ、って思った。そうだろ?ほんとうの気持ちを話すのに、死ぬまで待つべきじゃない」

これは本当にそうだ。

いくら照れくさくても、感謝の気持ちやいいところはどんどん言葉に出して伝えていこう。私はそう思ってなるべく実行している。大切なことを教えてくれたエリックくんに感謝。

このあと彼は魂になってからの感覚や時間経過の感じ方などを語り、先に亡くなっていた親族との再会についても語る。

そして、エリックとして生きていたことを振り返り、反省すべきを反省し、その反省のために苦しみ、そして救われていく。傷ついた魂を癒すためにあの世でセラピーを受けて立ち直っていく。

エリックは「もっと心の声を聞いていたら、もっと幸せに生きられただろう」と思い至るが、この言葉は生きている人間みんなが心に刻んでおくべきだと思う。

 

エリックはあの世での生活も語っている。あの世は想念の世界なので思ったものを創り出すことが出来る。考えただけで家を建てたりバイクや楽器を出現させることも出来る。

 

死後の世界をいろいろと教えてくれたエリックは、現在アストラル界にいてスピリットガイドとして自殺を考えるほど悩み苦しんでいる人を助ける仕事をしている。主にインターネットを使って助けるから、死にたいと考えている人の中に入りネットで「死」「自殺」「喪失」「息子」などという特定のキーワードを検索させ、エリックのお母さんが運営するブログ「チャネリング・エリック」に導いているようだ。そして、そこで悩みを相談し、誰かがくれるレスで救われるようにする……そんな働きをしているという。

チャネリング・エリックはメタフィジックス通信で何度も紹介されている。

metaphysicstsushin.tokyo

 

この本は身近な人を自死で亡くして苦しんでいる方に読んでほしい一冊だ。

 

f:id:pengin-dou:20211127002224j:plain

 

最近はスピリチュアルの世界で「人生は何もかもシナリオ通りで人間に自由意思はない」という説を唱える人が増えてきた。

私はこの説が好きではない。今起こっていることはすべて予め決まったことだと言われて生きる元気が出る?

今起こっていることがすべて計画通りなら安心して生きられます〜という人は救われない現実を味わっていない人じゃないかと疑ってみている。

全てシナリオ通りというのなら、自死することも予め決めて来たことで、全く悪いことではないことになる。それを人生を自らリタイアするのはよくないと自死についてだけいうのはちょっとなあ……という感じ。

もしも自死も決めて来たことだということならば、なぜエリックはあの世に言ったばかりの時に自分でしでかしたことを反省させられているのか、ということにもなる。

私かつてYouTubeであるスピリチュアリストの話をよく聞いていたが、その人が「人生は全部シナリオ通りで人間に自由意思はひとつもない」と言い出してからほとんど聞かなくなってしまった。人生のどん底にいる人には何の励ましにもならないし、絶望から救われないのよ、その説は。聞けば聞くほど苦しくなる。「いやいや、自分で決めて来たことだから乗り越えられるんですよ」と言われても、悲惨なまま死を迎えたら死んだあとに「あ〜、計画通り苦しみを学べた。よかった」って思うってことでしょ?それ、肉体を持った人間として希望出る?私にも自殺も殺人も計画通りって考えられるほど人間が成長する日が私にも来るんでしょうかね。不幸や不慮の事故にも引き寄せの法則が働いているという説は頷けるんだけど、人間に自由意思はない説は頷けない。私の魂のレベルが低いせいかもしれないけど。

ただし、自死もシナリオ通りで別に悪いことじゃないということが本当ならば、残された人たちは救われると思う。

 

 

人生の法則を自分で見つける

今日は仕事で電車を使った。

行きも帰りも電車内で様子のおかしいおばあさんに遭遇した。どちらの方も大声でずっと文句を言っていた。

行きで遭遇したおばあさんは、一緒に乗り込んできたおじいさんにずっと大声で文句を言っていた。

帰りに遭遇したおばあさんはひとりでずっと大きな声で文句を言っていたのだが、しばらくすると向かいに座っていたお嬢さんに絡み出した。お嬢さんが自分の長い髪の毛を触る仕草が気に入らなくて「電車内で髪を触るなって!不潔だよ!アンタみたいな不潔な人のせいでコロナが収まらないんだ!」とわざわざ席を立ちお嬢さんの目の前に移動して怒りはじめたが、お嬢さんは無視して髪をいじり続けていた。なかなかの強者である。私はおばあさんの隣に座っていたのだが、私のことはまったく目に入っていないようだった。おばあさんはお嬢さんに絡み終わると再び私の隣に座ったが、今度は「コロナはもっとこれからどんどん酷くなるよ!!これまでなんてもんじゃないよ!!」と叫び始めて、思わず「まさか、予言者!?」と思ってしまった(笑)。

 

どうして行きも帰りもこういうおばあさんの隣に座らなければならなかったのか?

ついていない運勢だったのか?

いや、どちらのおばあさんも私のことは眼中になかったし、自分は被害に遭っていないのだから充分に守られているということなのか?

 

なんて、こういうめずらしい出来事に遭うとついついその「意味」を考えてしまう。

そして出来事とそのときの自分の運勢を観察していくと何か法則性のようなものが見つかるような気がする。

今日、このふたりのおばあさんに遭遇した出来事は今日の自分に起こったことには結びつかなかったけれど。明日も遭遇したらやはり何かあるのかな?とは思う。

 

f:id:pengin-dou:20211125214237j:plain

 

そんな風に自分に起きる出来事の法則性を何年か観察しているうちに、ひとつだけ気づいた法則がある。それは、水をこぼしたり何かの拍子で自分に水がかかってしまうときには、自分の行動があまりいい方向に向かっていない、というものだ。水が教えてくれているのだろうかと思うほど、プチ水難が起きるとその後数時間のうちによくない目に遭う。なので買い物に出かけようかというときにコップの水が何かの拍子にこぼれてしまうと外出を止めてしまうようになった。そのくらいプチ水難のあとは嫌な目に遭っている。危険を教えてくれているのは水神様かなとか龍神様かなとかいろいろ考えたが、最近、水には記憶があるとか意思があるとか、水には人間の役に立ちたいという強い気持ちがあるという話を耳にした。もちろんスピリチュアル界隈での話だ。

 

水は人間の役に立ちたいと思っていると言っていたのは小林正観さん。

重度のアトピーで苦しんでいる人が、摂取する水分全て(水、お茶、お味噌汁などなど)に「細胞から元気にしてくださってありがとう」と言って飲んでいたら数ヶ月(1〜2ヶ月だったかな)できれいさっぱり治ったという。ひどかった顔のアトピーもすっかり治ってしまい、数ヶ月ぶりに再会したときには正観さんにはその人が誰だかわからなかったという。何でも実験しなければ気が済まない正観さんはそのときは健康だったので「若返らせてくれてありがとう」と言ってから水分を摂取するようになったら白髪がなくなったという。そういえば正観さんの写真は御髪が黒々フサフサとしている。正観さんは「これをガンの人がやったら治るのではないか」と言っていたが、私はまだそれを実験してみた人を知らない。

 

そんなわけで、じゃあ私も「若返らせてくれてありがとう」を試してみようと思っているのだが、大抵はすっかり忘れて飲んでしまう。そして飲み終わってから「あっ、ありがとうと言い忘れた!」と気づくことが多い。これでは実験にならないかな。それとも思い出したときにだけでも言っていたら何か結果が出てくるのかな?もう水のタンクに「ありがとう」と書いておこうかな。

—— いや、そういえば、若返っている途中なのかどうかはわからないけれど、最近すんなり眠れるようになった。かなり重度の不眠症で悩んでいたのに。暁を覚えないのは春眠であって秋眠ではないし、冬眠まではまだ先だし。若返るにはまず眠れるようにしなければいけないと思っていたし。睡眠不足は覿面にお肌に出るから。それを考えると水に対して「若返らせてくれてありがとう」と言うのは効果は出てなくはないのかもしれない。そう思っておこう。自分がよい方向に行くのならばプラセボでもいいのだから。

それに、いつも自分に危機が迫っていることを教えてくれる水が、自分の体内でも頑張ってくれていると思うとなんとなく嬉しい。お水さん、いつもありがとう!

 

 

 

 

 

Amazonで買い物が怖くなった

f:id:pengin-dou:20211123231211j:plain

ネットを見ているとこのところAmazonのあまりよろしくない話題が多く見受けられる。注文した商品(カメラやCPUなど)が届いたら空箱で中身が入っていなかったとか、イヤホンを注文したら粘土が入っていた、などなど。

sellercentral-japan.amazon.com

 

数年前まではAmazonで買い物をしてもそれほど酷い目にあったことはなかったのだが、ここ1〜2年の間に私の注文でも記載されている商品と違うものが届いたり壊れている物が届くことが何回かあった。

一番酷かったのはある日用品を購入したときだ。

使い心地と長く使えることを考えて日本の有名な会社が製造販売している商品をAmazonで購入した。商品ページにはちゃんとその会社のその商品だと書かれていた。しかし、届いた商品は100円ショップで売っているMade in Chinaの劣化版だった。これを販売したのはChinaの会社。もちろん返品して代金を返してもらった。

小型の撮影ブースを購入したときにはライトの点かない壊れた物が送られてきた。それではただの箱だ。ただの箱はいらない。これも届いてすぐに返品。あとでわかったがここもChinaの会社だった。

トレース台を購入したときも無段階調光といいながら全く調光できない商品が送られてきた。これも返品。そしてこれもChinaの会社。商品もMade in China。

コピックに似たアルコールマーカー80色セットを購入した。ブレンダーペンも入っていたがまったくにじまず全色ただのマーカーだった。使ってしまったので返品できず。これはばったもんを買った自分が悪いとは思うがコピック最高。これももちろんあの国製。

 

このようにいろいろ続いたので「もうAmazonでは本しか買えないな〜。モノを買うのはやめておこう」と思っていたのに、先日またやらかしてしまった。

私はほぼ1日中Macの前にいるのでブルーライトカット眼鏡が欠かせない。ブルーライトカット眼鏡登場以前は重症のドライアイに苦しんでいたが、ブルーライトカット眼鏡のおかげでそんな苦しみとはおさらばできた。

しかし、先日、何年か愛用していたブルーライトカット眼鏡のつるが壊れてしまった。これは早急に買い替えなければと思ってしてしまったんですね〜、Amazonで注文。レビューもよかったのでまあいいかな、と。

ところがこれが間違いだった。

見事にドライアイ再発。全く役に立っていない。たぶんブルーライトカットされてない。

私は元々乱視で、3〜4メートル離れた人の顔はまるで興福寺の阿修羅像のように顔が三重くらいに見えてしまうのだが、これがもっとひどくなってしまった。

Amazonのレビューも全然当てにならないこともよ〜〜〜〜くわかっていたつもりだったのだが油断した。これではもう伊達眼鏡にでもするしかないが、うっすら色のついたレンズの眼鏡なんて恥ずかしくてかけて歩けないわ!一体何に使えばいいんだ。

 

また、配送業者もAmazonデリバリープロバイダ(ADP)はまだまだそれほど使い勝手がよくない。ADPになってからクロネコさんのありがたみが身にしみている。

norifune.com

 

本ならAmazonでいいかと思いきや最近は本も安心して買えない。レビューが5つ星ばかりでも信じて買うことが出来ない。レビュアーに桜やファンクラブの人が多いのかなという印象。作品によってはタイトルと中身が違うこともあるのでやはり本も直接手に取って確かめてみたくなる。最近は電子書籍で買うことも多いので「試し読み」ができると助かる。「試し読み」が出来ない場合はせめて商品説明の欄に目次を載せてほしいが、最近はなぜか紙の本も電子書籍も目次をの載せなくなってしまったようだ。面倒な作業だから省かれてしまったのだろうか。消費者にとっては大切な情報だと思うのだが。

 

このような経験が重なってくるとやはりお買い物はお店で現物を手にとって、直接目で見てし確かめてから買いたくなる。通販の台頭でデパートなどの実店舗が衰退しているが、こんなことが続くとあるいは実店舗が見直されてくるかも?

 

 

 

お気に入りの靴下のお題で書いてみた

今週のお題「お気に入りの靴下」

 

初めて【今週のお題】で記事を書いてみる。

お気に入りの靴下か。

なんとも私にピッタリなお題ではないか。

私はそれほどお洒落というわけでもなくとにかく清潔を心がけているくらいなのだが、実は靴下にはこだわりがある。

3足1000円のものでもかまわないのだが、安いからいいやとかどうせ靴で隠れるから何でもいいやという気持ちでは選ばない。そういう気持ちで選んだ靴下では朝どれを履こうか選ぶときにテンションが上がらない。

そんなわけで靴下を買うときにはお店で悩みに悩みまくる。3足1000円ならば気に入ったものが3足にならない場合は買わない。素材は綿が一番好き。そしてなるたけmade in Japanを選ぶ。

そうして選んだお気に入りの靴下のみなさんがこちら。ほんの一部だけど。

f:id:pengin-dou:20211122235201j:plain

お気に入りの靴下

なんだかしましま率が高いが、それよりも何よりも派手な色が好きみたいだ。

一番左の靴下は左右で柄が違うところがお気に入りのポイント。

そして足首が隠れることが重要。どうしてかわからないが足首が出ている靴下は履き心地が悪く感じる。

 

お店に行って靴下を選ぶのが好きなのだが、最近はあまり選べなくなってきた。

なぜなら私は足が小さいので22.5(あるいは22センチ)〜24センチという靴下じゃないと駄目なのだが、最近は23センチ〜という商品が圧倒的に増えたのだ。日本人の体形も変わって足が大きい人の数が圧倒的に多くなったのだろう。ほんの0.5センチの差だからいいんじゃないの?と思うかもしれないが、23センチ〜の靴下は私には大きい。足先やかかとが余ってみっともないし履き心地も悪い。そして、足の小さな人は必然的に高齢者に多くなるのでデザインが、デザインが………(涙)。もしも22.5センチからの靴下が絶滅したらどうしたらいいのだろう。そうなったら今後は子ども用の靴下にするしかないか。絶滅してしまう前にかわいい22.5センチ〜の靴下を見かけたら買いためておけばいいのかな。小さくてかわいい足はかわいい靴下で包まなければならんのだ。

そしてこの派手な靴下を履きつつ、その上のパンツ(ズボンの方ですよ!)やワイシャツはそれほど派手でもないという。なんだけど、たまにチラリと靴下が見えたときに綺麗な色、かわいい色だといいなと思う。地味な靴下を履いているときにはなんとな〜くテンションが上がらない。

 

なぜこんなに靴下に執着するかというと、幼少期の育てられ方にあると思う。

母は私にはワイシャツの下には必ずTシャツを着ること(Tシャツ1枚でもダメ)と夏でも靴下を履くことを口うるさく言い聞かせた。そのおかげで大人になってからもそれを守る生活が続いている。姉にはそう言わなかったそうだからなぜ私にだけTシャツと靴下を必ず身につけろと言ったのかわからないが、多分、おなかの弱い子どもだったからだと思う。必ず身につけなければならないなら、かわいくないものを身につけるのは嫌だ、という気持ちになったような気がするのだ。

 

靴下は気に入ったものしか買わないと書いたが、実を言うと買い物は全般的にそうだ。安いからこれでいいやとかこれしかないなら仕方ないや、といった買い物は極力しない。なぜなら私はすぐにものに魂を宿らせてしまう人なのでお気に入りのものしか身の回りに置いておけない。あ、魂を宿らせてしまうというのはタルパを作る的なことではなく、大事にするあまり何にでも魂が宿っていると感じてしまうこと。ものはなるべく大切に使うし、壊れてしまって捨てるときにもすごくお礼を言う。そのせいで私が持っている文房具や裁縫道具などは小学生の頃から使い続けているものが多いし、大きな声では言えないが洋服も傷まない限りは何十年も着ていたりする。大学生のときに着ていた洋服すら活躍している。

そんなわけで、靴下という一番汚れがちな衣類も大事に選んで大事に履いている。

 

 

 

発想の転換!逆さボトルはなかなかいいぞ

最近お気に入りの台所用品がある。

それがこちら。

f:id:pengin-dou:20211121214724j:plain

この逆さボトルがかなり使いやすい。

買うときには「もしかしたら液だれするかな?」などと頭をよぎったが、全然液だれしないので洗剤を置く場所も汚れなくなった。「いっぱい出し過ぎちゃうかも?」とも思ったが全然そんなこともない。いままでスタンダードなボトルを使っていたが、なぜかボトルの下に水が溜まったり洗剤の出る穴の付近が洗剤でベトベトになってちょっとしたストレスだった。そういったことから開放される日が来るなんて、これは画期的だなと思う。元々洗い物は好きな家事なのだが、最近は洗い物をするのがもっと楽しみになった。左手にスポンジを持って右手にこのボトルを持って「ちゅぱ」っと押して適量を撮るのが快感なのだ。ちょっとしたことなのにこんなに違う。P&Gの担当者さん、ありがとう。

以前、家電の形が複雑すぎて掃除しづらいとブログに書いたが、プチ潔癖症の私にとっては道具を綺麗に清潔に使えるか使えないかは結構問題なのである。台所がより清潔に使えるようになってすごく気分がいい。

mori-meiro.hatenablog.com

 

こういう工夫が出来るってすごいよなと思う。

そして、どうせだったらシャンプーやコンディショナーのボトルもこれにしてほしい。ポンプボトルの底にまだ結構残っているのに最後の方はポンプを押しても出てこなくなるのがものすごくストレスに感じる。特にコンディショナー。他の消費者は不満に感じないのだろうか。メーカー側としては「まだボトルに中身が残っているうちに詰め替え用のシャンプーとコンディショナーを入れてくださいね」ということかもしれないが、プチ潔癖症の私は最後まで使ってから詰め替えたい。衛生面を考えると水洗いせずにボトルの中にまだ液体が残った状態で詰め替えを補充した方がよいという話を聞いたことがある。水洗いしてしまうとボトル内に細菌が発生してしまうとかなんとか。私は使い終わったボトルを綺麗に洗ってアルコールor次亜塩素酸水で消毒してから詰め替えるのでそこは心配ないと思っているのだが。まだ古いものが残っている状態で補充するなんて老舗焼き鳥店の秘伝のタレでもあるまいに。それにどうせお風呂場で出なくなったポンプボトルと格闘した挙げ句ポンプを引き抜き、濡れた手で引き抜いたポンプの軸に触れてしまったり、指でコンディショナーを引きずり出そうとしてしまうのだから、どのみちポンプの中は衛生的ではなくなっている。

では、コンディショナーはチューブタイプのものにすればいいのかというとあれはあれで何か違う。チューブのコンディショナーは髪がかなり傷んでいるときに使うものなので私の髪には所謂リンスで十分だし、使ったところで最後に蓋のあたりにすごく残っているのに絞りきれないという歯磨き粉のチューブのような現象が起こる。そういうときにはさみでチューブを切って使うのだがちょっと手間。逆さボトルを一度でも使ってしまうとシャンプーもコンディショナーも「これにしてください!」とお願いしたくなる。

みんなは”シャンプーやコンディショナーのポンプボトルが出なくなる問題”でストレス溜まったりしないのかな?

いや、待てよ。ポンプボトルのシャンプー・コンディショナーが残っていても出てこなくなるのはメーカー側の作戦かもしれない。「まだ中身が残っているうちにボトルに入っていたものと同じ商品を詰め替えてくださいね〜。他の商品の詰め替えは買っちゃ駄目ですよ〜」的な。そうか、そうかもしれない。なぜなら私はプチ潔癖症であると同時に人並み外れた飽き性なのでポンプボトル1本を使い終わる前に大体飽きてくるのだ。よっぽど気に入ったものでなければ違う商品を使いたくなる。洗い心地や髪の手触り、香りを総合的に考えていろいろ試した結果、お気に入りでずっと使い続けてもいいシャンプー・コンディショナーも見つかったこともあるのだが、私が気に入るとすぐに廃盤かリニューアルになってしまう。以前の香りが好きだったから使い続けていたのにデュアルアロマとか求めてないよ〜(>_<)なんて思ったことも。私の好みは万人受けしないのだろうか。

 

 

 

運転下手なドライバーの見分け方

街を歩いていたりスーパーで買い物をしているときに、道幅は狭くないのにバッグを体に当てられて「えっ?」と思うことが時々ある。

例えば広い歩道の端を歩いていると向かいから歩いてくる女性のトートバッグが私の腕に当たるとか、追い越しざまに腕にバッグを当てられるとか。スーパーの広い通路で商品を吟味しているときに背中に買い物カゴを当てられるとか。狭い道で私が邪魔になっているならわかるが、広い道で私の側よりもその人の側に広いスペースがあるにもかかわらず、だ。

最初は「もしかして嫌がらせされてる?」「わざとこっちに幅寄せしてきている?」などと思ってイヤな気分になった。そうやってぶつかってくる人の大体が謝りもしないし。

しかし、そのうちにどうやら嫌がらせや幅寄せとは違うようだということがわかってきた。そういう人たちを観察していると圧倒的に女性が多いことと、ぶつかっているのが私に対してだけじゃないことがわかったからだ。ということは、自分の体とバッグを持ったときの自分の体の幅が掴めていないということなのだろう。車の運転に例えるなら車両感覚がまるでないということだ。そういう人が車を運転したらと考えると恐ろしい。いまこの記事を読んでバッグや買い物カゴを他人に当ててしまうと思い当たる人は車の運転はしない方がいいですよ。あるいはよっぽど慎重に慎重に運転をするか。そうじゃないとせっかくの車が傷だらけになります。

 

また、私には車の運転が下手なドライバーを見分ける自分なりのポイントがある。これは絶対に当たっているという自信があるのだが、運転するときにお口をぽかんと開けているドライバーは運転が下手な確率が高い(優しいいい方をしましたよ)。細い道で対向車とすれ違うときに端に寄れないドライバーは大抵口を開けているし、右折できないドライバーも口を開けている。すれ違いや右折など緊張する曲面になったから口を開けるのではなく、普通に走行している最中に口を開けている率が高いのだ。これを読んだみなさんも今度から対向車のドライバーの口元を観察してみると面白いと思う。

f:id:pengin-dou:20211119223244j:plain

 

運転つながりで想い出した。

私はかつて大渋滞の先頭になったことがある。断っておくが私が運転していたのではない。まだ私が高校生の時に所用で家からかなり離れた場所へ出かけたことがあった。そこで知り合いのお姉さんにばったり会うと、彼女は善意で車で家まで送ってくれた。お姉さんの車は犀川沿いの国道19号線松本市街地に向けて一生懸命走っていく。だが、実はこのお姉さん、車の運転が大の苦手だったのだ。「後ろの車が煽ってくる〜」と緊張で顔を真っ赤にしてハンドルを握っているお姉さん。驚いた私は後ろを振り返った。すると緩く大きなカーブのせいでかなり後ろの方まで見渡すことが出来たのだが、お姉さんの車を先頭としてものすごい距離の渋滞が出来ているではないか。冬の夕方はもう真っ暗で車のライトが連なる光景は壮観でさえあった。お姉さんの車は時速40キロいくかいかないかの速度で走っている。頑張れ、お姉さん!と私は心の中で思いつつ、反対車線の車がスムーズに流れている様を見て、自分が将来車を運転することが少しだけ不安になった。しかし、私が渋滞の先頭になったのはこれまでの人生でまだこの一度きりだ。ちなみにこのお姉さんは右左折の時に歩道に乗り上げてしまうこともあったが、私の知る限り交通事故は起こしていない。なんて守られているんだろうと思う。

また、大人になってから別の友人に車で遊びに連れて行ってもらったことがある。彼女も運転が苦手だった。時速40キロ以上は怖いし、高速には絶対に乗らないと心に決めているような人だった。彼女の車に乗ってしばらくすると私ももうひとりの友人も口数が極端に減ってしまった。何故か?それは極度の緊張からだった。塩尻から木曽方面に向かう途中、工事用の信号機も含めて彼女は信号無視を3回した。わざとではない。彼女にはそこに信号があることが認識できていなかったか信号が赤だと認識できていなかったのだ。これが田舎のそれほど車通りがない道だったからよかったものの、都会だったらどんな大事故になっていたか。というか、彼女も前述のお姉さんも車で通勤していたが、よく事故に遭っていないなと感心する。やはり守られているのだろうか。いや、守られているのは周囲のドライバーや通行人の方かもしれない。

彼女たちのように車の運転が苦手でも、田舎では車を運転しなければ生きていかれない。体にバッグを当てられるのは東京での回数が断然多いが、それは人口密度の差だろう。だが、自分の体の幅を認識できない人は絶対に車の運転が下手だと推測できる。都会は公共の交通機関が発達していて本当によかったなと体にバッグやカゴを当てられるたびにつくづく思う。

 

 

 

 

学校に行きたくない

いつも拝読しているブログで登校拒否の記事を目にした。

思い出した、自分も登校拒否だったことを。

小学校に入学してすぐに学校が嫌いになった……というか、自分に合わない場所だということがすぐにわかった。

劣化版のトットちゃんだったので学校で浮きまくっていたし、こちらは普通にしているのに廊下で突然ケンカをふっかけられたり、なぜか意地悪されることが多かった。意地悪をされる、だから嫌だったのではなく、当時はうまく言語化できなかったけれどそういう意地悪な考え方しかできない同級生がくだらなく見えたし、同じ体操服を着て一糸乱れぬように足を揃えて運動会の行進の練習をするのが気持ち悪いと感じて学校生活が途轍もなくつまらなかった。自分の考え方が理解されないのも面白くなかった。

 

昔は登校拒否児に対する扱いも手厚くなかった、というよりも登校拒否児は邪魔な存在だったので中学の教師からは「自分が特別な存在だと思うな!」「お前など社会に出れば歯車のひとつにしか過ぎないんだぞ!」などと随分怒られた。悩みを聞いてこの生徒を救う、みたいなことは全くなかった。担任とそういう話をしたことも一度もない。同級生が「今朝お母さんが起こしてくれなかったから寝坊した!お母さんのせいで遅刻ギリギリだった」と大声で言うのを聞いて「なんて幼いんだ、何もかもお母さん任せで恥ずかしくないのか」なんて思ったら学校自体もくだらなく思えた。

高校のときもあと英語の授業を1日休むと進級できないと言われたし、体育は出席日数が足りなくて夏休みに補修をさせられた。ただし、高校生活は楽しかった。高校というところはほぼ同じ学力の生徒が集まるので、それほど考え方が乖離した同級生がいるわけでもなく、よき先輩や友人に恵まれた。朝が弱かったので午前中に学校にたどり着くのが至難の業だっただけだ。学校に行けば楽しくて放課後いつまでも遊んでいて帰宅時間が真夜中になったくらいだ。

そして大学は授業も何もかも楽しくて、私は他人様よりも多くの単位を取得した。他学部にも講義を受けたい科目がいっぱいあったからだ。けれど、アルバイトばかりしていて寝不足だったので講義中は気持ちよく夢の国へ行ってしまうことも多かった。いまはもっともっとうんとうんと勉強しておけばよかったと少し後悔している。

親御さんに少しだけ希望を持ってほしいのは登校拒否の走りのような私でも大学にまで進学しているということ。人間、数年先のことまではわからないものだ。多分、小学校中学校の担任は私が大学まで行くとは思っていなかっただろう。

 

さて、そんな登校拒否の娘を抱えて母は何をしていたかというと、自分の人生に忙しくて娘をかまっている暇はなかった。もともと半分ネグレクト状態だったし。小学生の頃はおなか痛いから学校行かないで済んでいたけれど、中学の時にあまりに学校に行かないので一度だけ「好きにしなさいっ!!」とヒステリックに怒鳴られたことがあっただけだ。あとは私の躾は姉にお任せで、私の素行の悪さを目にすると母も祖母も「お前の躾が悪いからだ」ど姉を叱っていたらしい。あとで聞いた話だけれど。

f:id:pengin-dou:20211114232537j:plain

 

そんなわけで、登校拒否中で親御さんが口うるさくてうざいと思っている児童、生徒のみなさん、気にかけてもらえているのは愛のある証拠かもしれませんよ。愛の反対は憎しみではなく無関心だと言うでしょう?

けれど、うざい思う気持ち、放っておいてと思う気持ちもわかります。私もかつては子どもだったから。ただ、親御さんはあなたをどうしたら救ってあげられるのかわからなくて悩んでいるのです。大人になれば何でも達観できて物わかりがよくなるというものではありません。大人も絶えず壁にぶつかったり悩みに押しつぶされそうになってもがきながら生きています。その悩みが自分の大事な大事な子どものことだったらなおさらです。それに、大人は自分が子どもだったときのことを忘れてしまっているものです。それは悪いことではありません。あなたも大人になれば子どもだった頃のことの多くを忘れてしまいます。けれど、それはやはり悪いことではないのです。私は子どもの頃は生きているのが本当につらかった。しかし、大人になるに従ってどんどんしあわせになってきました。金銭面で家族に頼り切りにならなくていいので自分の意見をはっきり表明できるし(子どもの頃の私は金銭的に面倒見られていたことに引け目を感じて卑屈になっていた)、いろいろな体験をして精神的に余裕もできるし、大人最高!

大人最高だから、自分の部屋に閉じこもって「もう死んじゃおうかな」なんて思わないで。つらくて苦しい子ども時代だけで人生を終わらせてしまうのは本当に本当にもったいないことです。いまは時間が経つのが長く感じるかもしれないけれど、本当は5年や10年なんてあっという間です。

 

そして、お父さん、お母さん。子どもが学校にも行かずに部屋に閉じこもってゲームなんてしていると「何を考えているんだ」と頭にきますよね。けれど、できるなら頭ごなしには怒らないでください。もしかしたらお子さんは自分の心の中からつらいこと、苦しいことを追い出すために一生懸命ゲームに打ち込んでいるのかもしれません。逃げ場がほしいのです。私もイヤなことがあるとゲームをやって頭を空っぽにしようとします。マインドフルネスの劣化版の代用のようなものです。自分でも時間を無駄にしていると自覚していますが心を守っています。

そんな状態の時、学校に行かないで家にいるのなら本当はお母さんと一緒におしゃべりをしたりお料理を作ったりお菓子を作ったり買い物に行ったりするのがいいかなと思いますが、子どもはお母さんが怒っているなとか悲しんでいるなということを敏感に感じ取るのでなかなか側に行くことができず、ゲームを選んでしまうのかもしれません。学校も嫌だけどご両親に対しても引け目や後ろめたさのようなものを感じている可能性が高いです。それで余計にゲームのような逃避の方向へ向かってしまったり部屋に閉じこもったりしてしまうのかもしれません。惰眠を貪っているように見えるときも幼い心を守っているのだと思われます。小さな頭の中で葛藤しています。大人にとっては取るに足らないことでも子どもにとっては重大事件なことはざらにあります。ただし、本当に怠け心だけでのほほんとゲームをしているのが確固たる事実であるならば遠慮なく叱り飛ばしていいと思います。

それから、思春期にはホルモンバランスも崩れるので精神不安定になります。反抗的になります。自分の心を自分でどうしていいのかわからなくなるときがあります。理性ではわかっても感情がついていかないのです。いま振り返ってみるとその年頃だった頃、私も大変気難しかったと思います。いえ、多分、かなり恥ずかしいくらい気難しかったです。

だからといって親御さんの立場になってみると、これから自分の子どもはどうなってしまうのかという先の見えない不安に押しつぶされそうになったり、どうして言っていることをわかってくれないのか腹立たしいこともあるかと思います。私は結婚もしていないし子どももいないので親御さんにアドバイスすることはできないかなと思いますが、もしも自分に子どもがいたらどうするか考えてみました。

いまはいろいろな方法があるのだから、登校させること一択じゃなくていいやと考えます。大人にわからないつらさが学校にあって命を削るような思いをさせる、実際にそういう行動に走らせてしまうよりも、フリースクールなり何なり探すと思います。命が一番大事だから。私は子どもの頃、すでにもう現世に執着がありませんでした。心は天国へ行くスタンバイができていましたが、いまでも生きているのは信仰の存在によります。自死は信仰を傷つけるからです。いまはなかなかそういう宗教観や生命観を持つ子どもは少ないでしょうからなおさら命を守ることを第一に考えると思います。苦難に立ち向かうことだけがいいことではありません。命や心を守るために逃げることも大切です。世の中にはしなくてもいい苦労もあります。

お子さんの将来を考えたらちゃんと学校を出して就職させなければといい親御さんであればあるほど考えると思いますが、いまは私たちが学生だった頃よりもお金を稼ぐ手立てはたくさんあります。例えばネットで絵を販売してガッチリ稼いでいる小学生も実際にいます。私が親だったら子どもの才能をみつけること、子どもが好きで打ち込めることを探す方に全力で振りきるかもしれません。そうしているうちに子どもが「やっぱり学校行く〜」と言って登校していくのであればそれはそれでよし。「じゃあ学校へ行ってこい、けれど死にたくなるようだったらいつでも帰ってこい」と送り出します。

ただ、私がこんな脳天気なことを書けるのも自分が自由業だからだと思います。きちんと就職してお勤めしている方にはたまらなく心配で仕方ないことだと思います。

結局何のアドバイスもできない感じになってしまいましたが、学校で浮きまくっていて登校拒否でもあった私でも何とか大人になってそれなりにしあわせに暮らしていることだけはお伝えしたいと思います。