活字の森 思考の迷路

読んだ本や考えたことなど徒然なるままに書いていきます

冬にはももひきが必要らしいとやっとわかった件

 

それは長年の疑問だった。

冬の期間、なぜみんなお尻が出るくらいの短いジャケットで平気なのか?

お尻や太ももは寒くないのか?

「動きやすいじゃん」とある知人は言った。

動きやすくてもお尻が冷たいと嫌じゃない?と思ったけれどそれは言わなかった。

いくらダウンジャケットでもお尻や太ももが隠れないのでは怖くて故郷の信州へは帰省できない(いやもう何年も帰ってないけど)。

いくらおしゃれのためでもお尻と太ももが寒いのは嫌だなあ。

そんな私はロングコート一択なのである。

 

ところが先日、駅に向かって歩いているときに突然わかった。それまで考えていてこととは全く関係なく、何の脈絡もなくそのひらめきは私の頭の中に突如としてやってきた。それは

「そうだ、みんな多分パンツの下にももひき、ズボン下、スパッツ、ヒートテック、暖パン、なんかそんなようなやつを履いているのだ!!!!」

ということだった。なあああああんだああああ、そういうことだったのかと、それはもう「ユリイカ!」と叫びたいくらいに積年の謎が一瞬にして氷解したのだった。もしかしたら神の啓示と言ってもいいかもしれない。

私はそのような装備を何十年もしていないため、そんな簡単なことがわからなったのだ。

みんながパンツの上にヒートテックももひきその上からズボンだとしたら、私はパンツにズボン以上!で何十年も過ごしている。だからロングコートじゃないと寒いと思っていたのだ。

どうしてそんなことになったかというと、私は子どもの頃、剣道を習っていた。剣道場では夏でも冬でも胴着の下は男子はパンイチ、女子はブラも許す(場合によってはTシャツやキャミソールも)だったので、その装備のまま生きてきたのだった。それに、たま〜にズボンの下にタイツを履いたことはあるけれど、ズボンとタイツの摩擦が気持ち悪くてあまり重ね履きをしたくないのだ。

しかし、剣道場に通う以前は毛糸のパンツとかズボン下とか履かされていたという記憶もももひきユリイカとともに蘇ってきた。剣道は大して上達しなかったが、寒さにだけは耐性ができたようだ。

まあ、東京は暖かいからずっと屋外にいるのでなければ上着さえ暖かければ下は秋物の洋服でも過ごせるんだけどね。そういえば、上京してきたばかりの頃、ダウンコートの下は半袖Tシャツという人を何人も見かけて信州人の私は驚いたなあ……。信州は(松本、安曇野塩尻だけかもしれないけど)室内も寒いからなあ。

 

 

 

やさしい光景

先日、住宅街を歩いていたら素敵な光景を目にした。

ふと前方を見ると交差点のかなり手前で左折のウインカーを出したままちっとも曲がらないワンボックスカーを見かけた。

あまりにも動かないのでどうしたのだろうと思ったが、交差点に来てその謎が溶けた。

曲がり角に手押し車に幼児を満載にした保育士さんがひとり。そしてあちこち勝手な方向に歩いていこうとする3〜4人の幼児を一生懸命まとめようとしている保育士さんがもうひとり。

ワンボックスは保育士さんを焦らせないように、また幼児を怖がらせないように、彼らが交差点を去っていくのを離れた場所で待っていたのだった。

運転していたのはお孫さんがいても全然おかしくない年齢にお見受けできる男性だった。

保育士さんと子どもたちを見守る目がとても優しかった。

もしかしたら自分の子どもの小さい頃かお孫さんのことでも思い出していたのかな?

こういう人生経験の現れ方はすごくいいなと思った。

私はまだ動かないワンボックスを追い抜きざまにこの運転手さんに雪崩のごとくよきことが起きるように呪いをかけた(笑)。

ワンボックスカーはどこかのおしぼり業者さんの配達の車だった。優しい運転手さんにお仕事でもいいことがたくさんあればいいなともうひとつ呪いをかけた。

ニュースでは怖くなるようなこと不安になるようなことばかり目にするが、身近なところにはまだまだ心が洗われるような出来事がある。不安の種を撒き散らすよりも小さなしあわせをあつめて明るい気持ちでいたいと思う。

その意味であのおしぼり屋さんの男性は私にもハッピーを分けてくれたのだった。

 

 

 

私が実話超常現象を書く理由

何ヶ月もかけて書いていたKindle本を今日やっと出版することができた。

クリスマスイブの日に間に合ってよかった。というのは表向きの話で、実は12月24日は私にとってはクリスマスイブではなく母の命日なのでその日に出せればいいなと思っていた。

しかし、何も感傷的になってこの日を目指していたわけではなく、何か目標になる日がないとズルズルと先延ばしにしてしまいそうだから年内に出すのならば丁度いいからこの日にしようと思っただけなのだ。母上、命日を目標日に使わせてもらってありがとう。

 

前作「久遠悠嘉奇譚集①魂のいとまごい」と同様に今回も超常現象の話だが、「魂のいとまごい」は家族や身近な人が亡くなったときに私に起きた不思議な現象を書いたものだが、今回出版した「久遠悠嘉奇譚集②時空のゆらぎ〜入り乱れる平行世界に翻弄される日々〜」は自分自身が平行世界を移動しまくって困った話やケガレチに住んでいたことで不幸に見舞われた話などを集めた。実話超常現象にご興味のある方は是非お読みただきたいと思う。

 

本にも書いたことだが、私が超常現象に興味を持つようになったのは育ってきた環境が大きく影響している。祖母も母も霊感が強く、家庭内で不思議な現象が頻発していたことや、子供の頃のテレビは超常現象やUFOを扱った番組が多かったからだ。

祖母も母もしょっちゅう幽霊やら何やら目撃していたし、母は頻繁に幽体離脱していろいろなところを見てきたり肉眼ではっきり見えるような生霊を飛ばすような人だった。

私が子どもの頃に住んでいた古民家にはトイレの前に女の地縛霊がいて、その地縛霊を見ないようにトイレに入るのにとても苦労をした。

そんな環境で育ったのであまり抵抗感なく超常現象について考えるようになった。

しかし、ここだけの話、私は超常現象をなんでもかんでも信じているわけではない。何なら自分の身に起きた不可思議な現象でさえ「いまの出来事は何かの錯覚だったのではないか」と毎回考える。そして、どうしても錯覚では片付けられない出来事だけを厳選して書いたのだ。

次回は未確認飛行物体との遭遇について書こうと考えているが、実は実生活では自分が体験してきた超常現象の話なんてできないんだよなー。頭おかしいんじゃないかと疑われてしまうから。よほど親しい人じゃないと「幽霊をみてしまった」とか「母の生霊と戦った」とか「時間が巻き戻った」なんて話はできない。親しい人でも超常現象にアレルギーのありそうな方の前では絶対にこんな話はしない。それだけに本にするときにはしっかりと気持ちをこめて書いた。たくさんの方に楽しんでいただければいいなと願っている。

 

 

願いの叶い方はひとつじゃない

 

人はどうしても叶えたい願いごとがあるとき「ほしい、ほしい、ほしい、ほしい………」「叶えたい、叶えたい、叶えたい……」と自分が願っていることが叶っていない状態、欠乏状態でその願いを心のなかで何度も何度も唱えたり考えたりする。

よく言われていることだが、実はこれは引き寄せ的にも潜在意識的にも逆効果だったりする。

引き寄せは思っていることが叶うと思われがちだが、実は心の中が現実化されるもので、「ほしい、ほしい」と渇望していると「ほしい状態」「渇望状態」が延々と引き寄せられてしまう。いちばん大切なポイントは「心が何を感じているか」ということになる。だからバシャールも「ワクワクすることをしなさい」と何度も何度も言う。

では渇望状態を絶対的に感じてはならないかというとそうではない。自分が何を欲しているのか知ることのできるツールだからだ。けれども自分が欲しているものや状態がわかったら宇宙にそれをお願いして、渇望感は速やかに手放したほうがよい。これはなかなか難しいと思うが思考も訓練だと思う。

心で強く感じたことが現実化するというのは私は日々感じている。

現在、大変な苦境にいるのだが、この状態は1〜2年前の自分が引き寄せたのだということは痛感している。仕事が嫌だと思ったから仕事が来なくなったし、住民税の金額を見てこんなに支払うの嫌だ〜〜〜!!と強く思ってしまった過去の自分を殴ってやりたい(笑)。

 

ところで、よく願望を現実化するには例えば100万円ほしいなら「100万円ほしい!」と具体的に念じた方がいいという人もいるが、「100万円に固執していると宇宙は1000万円あげようと思っていたのに『な〜んだ100万円でいいんだ』と思われてしまう」と言う人もいる。それはどちらが本当なのだろう?悩むのは嫌なので私は「100万円以上」と願おうかな(笑)。

そして願いを叶えるコツは「結果」だけを思い描いてそうなるためのプロセスは自分で考えないことだとも言う。自分の小さな頭で考えるプロセスよりももっともっと素晴らしい方法で宇宙は願いを叶えてくれるから、それを邪魔しないように。私はこれも本当だと思う。

 

私にはずっと昔の高校生の頃、プロセスに執着しないことで意外な形で願いが叶った経験がある。それは身長のこと。私はかなり小柄だ。幼児のときに撮った記念写真も自分だけ小さいし、小学生の時も常に前から2〜3番目の小ささだった。子どもの頃から小さいままで生きているが、高校1年生まではもっと大きくなりたいと切に願っていた。高校に入学して一時の気の迷いで運動部に入ってその思いは一層強くなった。小さいことが不利なスポーツだったからだ。165センチほしい。私は朝晩願うようになった。

すると、なんと!私の身長が急激に伸びて……

なんてことはなかったのだが、環境が突然変わった。なんとなんと「小さくてかわいい」と周りの人たちからかわいがられるように変化したのだった。お洒落を始めたとか、容姿端麗になったとか、そんなことはまったくない。ただただ「小さくてかわいいね」と突然チヤホヤされるようになった。そして私はいつの間にか高身長になりたいという願望から開放された。まあ、部活の方は小さいことで先輩たちからかわいがられるようになると同級生たちからのあたりが強くなるというつまらない人間関係でやめることになったのだけれど、それはそれで開放感ありまくりで辞めてよかったと思った。部活を辞めて以降の高校生活はパラダイスだった。背が低いというコンプレックスから開放されたことも大きかったかもしれない。そして私は高校生ながらに「願いの叶う形っていろいろあるんだな」と実感していた。物理的に高身長になる叶い方もあったかもしれないが、多分、小さいまま周囲の人からかわいがられることが私にとっては一番しあわせだったから宇宙はそのように叶えてくれた、というか「チビ」というコンプレックスを私から取り除いてしあわせにしてくれたのだろう。

思えばこの頃の私は魔法使いだった。そうなったらいいなと思ったことは大抵叶えることができていた。大人になった今でも急に思い出したように魔法使いになれるときもある。急にお金が必要になったとき、ほしいと思っていた金額が全然思いもよらないところから入ってきたり、「ぜーんぜんお金を使わないで海外旅行に行かれないかな〜」と思っていたら仕事でマカオに行くことになったり。マカオに行ったときには弾丸取材だったので自分自身のおみやげすら買っている暇がなく、本当に1円も使わずに帰ってきた(笑)。本当に宇宙さんは何でものぞみを聞いてくれるんだなと感心した。

今現在、叶えたい望みがあるのだが、それも自分がかつて魔法使いだったことを思い出して叶えていこうと思う。あ、いやいや、自分はもうとっくに大魔法使いだった。方法は全部宇宙さんにお任せする。ワクワクするような結果が出てこのブログで報告できるのが楽しみだ。

 

 

 

「ありがとう」を唱えることに効果はあるか

「ありがとう」をたくさん唱えると「ものすごくしあわせになる」「お金に困らなくなる」という話がある。まずは心をこめられなくても機械的に「ありがとう」と唱え続けるだけで効果があるのだと。

おそらくこれを最初に言い始めたのは作家で人間の潜在能力や超常現象などにも造詣の深かった小林正観さんだと思う。小林正観さんの宇宙論によるとありがとうを唱え続けると次のような変化があるという。

  • 25000回 第1ステージ。違う世界が来るらしい。涙がどっと溢れて2〜3時間泣き続けるらしい。それまで心を込めて唱えていなくてもこの数を超えると心の底から「ありがとう」が出てくるらしい。
  • 50000回 第2ステージ。
  • 10万回 第3ステージ。
  • 50万回 第4ステージ。
  • 100万回 第5ステージ。
  • 1000万回 第6ステージ。
  • 1億回 第7ステージ。1億回を超えるとお金の心配、経済の心配がいらなくなる。

確か25000回からだったと思うが、ありがとうと唱え続けていると見るものすべてが美しく輝いて見えるようになるという。それを正観さんは悟った瞬間なのだと言っていたと思う。ただし、悟りと言ってもブッダのようにずーっと悟りっぱなしというわけではない。それまで心にこびりついていた汚れのようなものが落ちたということなのかもしれない。

実は私はこれと似たような経験をしたことがある。私の場合は「ありがとう」ではなく「南無妙法蓮華経」を唱え続けた。その当時、私は大きな悩みを抱えていた。祖父母が熱心に日蓮を信仰していたため幼い頃から何かあったらお題目を唱えれば解決すると教え込まれてきた私は、そのとき1日3時間(約18000回くらいか?)題目を唱えようと決めたのだった。それで移動時間や頭を使わなくていい作業のときにずっと心のなかで「南無妙法蓮華経」と唱えていた。車を運転していても「南無妙法蓮華経」。キャベツを刻んでいても「南無妙法蓮華経」。掃除をしていても「南無妙法蓮華経」。仕事の合間にも「南無妙法蓮華経」。街を歩いていても「南無妙法蓮華経」。1日3時間だからそのくらいしないと完遂できない。しかし、それが2週間も続くと文房具だろうが食器だろうがごはんだろうが、見るものすべてが本当に輝いて見えてきて感動した。生きているのが楽しくなった。およそ1ヶ月位そんな生活をしていて、悩みが解決して題目を唱えなくなったら見える景色もいつも通りに戻った。しかし、唱え続けた結果、生活はガラッと変わった。あっという間に好転したといっていい。いまも悩みに苛まれているのでそのときのことを思い出して1日中題目を唱えようかなと思ったりするが、なぜか実行していない。あのときのパワーはどこへ行ったのだろう……。そう、唱え続けるためには心身ともにかなりのパワーが必要なのだ。

 

また、一方で斎藤一人さんは「ありがとう」を唱え続けてもそれが通じない日が来ると言う。「ありがとう」はいままで「ありがとう」も言えなかったような人が言うから神様や周りの人が喜ぶことでいいことが起きるが、「ありがとう」を言うのは当たり前のこと。マラソンで言うとスタートライン。だから「ありがとう」を唱えてしあわせが来る効果がなくなる日が来るのだと。「ありがとう」と言われる人になるのがゴールなのだそうだ。

そんな一人さんはある日夢の中で神様から「ありがとうゲーム」というものを教わったという。1日4回以上「ありがとう」と言ってもらうゲームで、月に100回以上言ってもらうのが目標なのだという。「どうも」とか「すみません」じゃ駄目で「ありがとう」じゃないといけない。それが何を目指しているのかというと、ありがとうと言うばかりじゃなくてありがとうと言われる生き方をしていきなさいということなのだと思う。「ありがとう」を言われる人生を送っていくと人生が開けるということなのだ。

一人さんはありがとうを唱え続けることには少々手厳しく、「おれの知り合いにありがとうをずっと唱えている人がいるけどそいつ嫌われてるよ」というようなことを仰っていた。その人が嫌われるのはありがとうを唱えることへの執着心が原因かもしれない。愚痴・悪口・文句・心配事などの「地獄言葉」を戒めている一人さんにしては「そいつ嫌われてるよ」なんて珍しい厳しい言葉だが、お弟子さんたちをありがとうを唱える人から言われる人へいざなうための手段なのかもしれない。

確かに「ありがとう」を言うよりも言われる人になる方がハードルは高いし、機械的に唱え続けるよりも「ありがとう」と言われる行動を心がけたほうが人格も磨かれそうだ。ただし、個人的には「ありがとう」という言葉自体には高い波動を感じるからありがとうを唱えることに全く効果がないわけでもなさそうな気はする。

ちなみに唱えるのは「Thank you」ではほとんど効果がないらしい。それは日本語の言霊に力があるからなのだとか。

 

「ありがとう」を唱えるといいことがある、人生が好転するというのには理由があり、小林正観さんの宇宙論では人間は投げかけたものが返ってくるといい、「ありがとう」と言えば「ありがとう」と言いたくなるような現象が返ってくるということらしい。「鏡の法則」と同じようなことだろう。

また、ありがとうと唱えていても不平不満・愚痴・泣き言・文句・悪口を言っていては何万回唱えようとすべて台無しらしい。言ったらまたスタート地点に戻ってしまうのだ。それはわかる気がする。お風呂に入りながら浴槽に汚れたものを入れているようなものだもんね。ありがとうを唱えるかどうかは別として不平不満・愚痴・泣き言・文句・悪口は言わないようにしたいと思う。私は日頃それほど人と接しないのだが、ありがとうゲームに少しでも参加できるように……というか、ゲームのことなんて意識しなくても人には親切に感じよく接したいものだと思う。

 

 

 

念じる言葉を変えてみる

マーフィーの法則引き寄せの法則が好きな人、またはスピリチュアル系の人たちにはアファメーションはおなじみだと思う。アファメーション以外にも特定の神仏やサムシング・グレートに祈る人も多いだろう。

そんなときによく言われるのが「叶えたいことは完了形で言う」ということ。例えば「お給料が1万円アップしたい」のならば「お給料が1万円アップしました!」といった具合に。そのあとに感謝の言葉を付け加えて「お給料が1万円アップしました。ありがとうございます!」とすればなおよし。「こうなったらいいな」と思ったことを「こうなりました」と断言し、なおかつ感謝の言葉も付け加える。それが叶う秘訣らしい。

また、マイナスの言葉よりもプラスの言葉のほうが幸せを引き寄せやすい。それはマザー・テレサが「反戦集会には行きませんが平和集会には行きます」と言ったことがわかりやすいと思う。最悪、「嫌い」よりも「あまり好きではない」、「悪い」よりも「あまりよくない」みたいな置き換えも大事らしい。実際に口に出して言い比べてみると波動の違いがわかる。「悪い」の方がずーんと下に下る気がするし、「あまりよくない」の方が「悪い」に比べて波動の下がり幅が少ないように感じる。

 

また、日本は言霊の国だからなおのこと言葉と現実がリンクしやすい気がする。

世界情勢がおかしな方向に傾き始めてから私は「日本を他国の侵略からお護りいただきありがとうございます」「日本を災害からお護りいただきありがとうございます」「日本を病気の蔓延からお護りいただきありがとうございます」と朝晩念じてきたが、その言葉を変えることを思いついた。

*「日本を他国の侵略からお護りいただきありがとうございます」→「日本の平和と自主独立をお護りいただきありがとうございます」

*「日本を災害からお護りいただきありがとうございます」→「日本の安全と安寧をお護りいただきありがとうございます」

*「日本を病気の蔓延からお護りいただきありがとうございます」→「日本人の健康をお護りいただきありがとうございます」

こんな具合だ。するとなんとなくマイナスの言葉を入れて念じるよりも気分がよい。引き寄せの法則でもバシャールでも気分がいいことが何より大事だからこれはいいかもしれない。気のせいというなかれ。かの万葉集柿本人麻呂

しきしまの大和の国は 言霊の幸(さき)わう国ぞ ま幸(さき)くありこそ

(この日本の国は 言葉が保つ力によって幸せになっている国です これからも平安でありますように)

と詠んでいる。

世界情勢も日本国内もいろいろなことがあるいまだからこそ言葉を大事にしていきたい。また、前回も三木大雲住職の「怪奇妙法伝」の感想で触れたように、神仏がこの国を去り始めているらしい。その理由のひとつに「言葉の乱れ→人心の乱れ」があるかもしれない。いまこそ日本の守りを固めるためにも言葉をバカにせず美しい言葉、プラス思考の言葉を使っていきたいと思う。

mori-meiro.hatenablog.com

 

 

 

お経が予言する終末を回避する方法

 

最近世界が、世の中がおかしい。

みんな怒っていて多くの人が攻撃的で、陥れたり陥れられたり、戦争を始めちゃった国もあったりして、一体どうなっているの?

そんな風に思っているのは私だけではあるまい。

本当に一体世界はどうなってしまったのか、その謎を教えてくれたのが怪談説法で知られる日蓮宗住職・三木大雲上人の「怪奇妙法伝」だった。Prime Videoで視聴できる。30分24本という大作だが私は一気に見てしまった。ちなみに「怪奇妙法伝」の「妙法」とは法華経を指す。妙法は日本においては聖徳太子の時代から大切にされてきたらしい。そして南無妙法蓮華経を広めたのが日蓮なのだ。

 

三木住職の元へは霊障に悩む人達から相談が寄せられ、障りをなす霊のために供養のお経を唱えるそうだが、あるときからそれがなかなかうまくいかなくなってきたと思うことがあるのだそうだ。

その理由として三木住職は神様がこの国を去っていってしまっているので神仏を勧請してお祓いしようと思っても手を貸していただけなくなってきたのではないか、と考えているのだという。ここで「住職の力が弱っているのでは?」と穿った見方をしてはいけない。神仏が国を捨ててこの世からいなくなってしまう、それがどういうときに起きるのかということがお経の中にちゃんと書いてあるといい、世の中がそのお経の通りになっているというのだ。

三木住職はコロナ禍が始まる前の2019年の大阪で行われた怪談イベントで「2020年を迎えるにあたって注意がある。来年には疫病が流行る可能性がある」と警告を発していた方だ。三木住職になぜそれがわかったのかというと「お経の中にそれが書いてあるから」だという。そして、神仏がすっかりこの国を捨て去ってしまう前に多くの人たちにそのことに気づいてほしいと活動している住職の警告の動画がこの「怪奇妙法伝」なのだ。なので楽しい怪談話を期待してこの一連動画を見るとおそらく大層がっかりすることになると思う。

 

さて、三木住職のおっしゃる「お経」の中には一体どんな警告が書かれているのか。

それはオカルト界隈では「日蓮の終末予言」として知られる三災七難だ。三災七難とはWikipediaによると仏教で正法に背いたり、正法を受持する者を迫害すると起こるとされる禍のことだ。日蓮は正しい仏法を受持しなければ蒙古が攻めてくると認めた「立正安国論」を時の執権北条時頼に提出したが、日蓮も三木住職同様しっかりと経文を読み解いてそのような予言をされたのだろう。

ja.wikipedia.org

 

神仏が国を捨て去ってしまうのは一体なぜか?

ただ単にお坊さんや仏教に背いているから起きる、ということでもなさそうだ。この動画を見たところで言うと、金光明経の中に「互ひに相讒諂して枉げて辜無きに及ばん(たがいにあいざんてんしてつみなきにおよばん)」という一文があり、それは現代に置き換えると罪を犯した人はもちろん罪のない人をもみんなでよってたかって文字や言葉で攻撃して叩きのめすことに当たるようだ。テレビやインターネットがない時代には村の中での罵り合いですんでいたものが、いまや世界中どこからでも一人の人を叩けるようになってしまった。または自分の正義を声高に主張したりお互いに足を引っ張り合う。すると仏教で人間の境涯を十種類に分けた十界(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の10種類)の人界より下の地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪趣と呼ばれるよろしくない境涯の方へ世の中がどんどん進んでいってしまう。これが神様が世の中からいなくなってしまう理由なのだという。

私は三木住職がこういったことを語る箇所を見て「わー、アメリカなんてまさにそうじゃん。トランプとかポリコレとか……」と思ったが、日本もそうだった。正義や平和を掲げていながら暴力的で怖い活動をしている人たちがよくデモをしている。自分とは主義主張が違う人が暗殺されたと大喜びする人までいる。それで日本の没落も始まったのか、と背筋が寒くなった。

世の中の人たちがお互いのことを責め合って許すことをしない。ほめることもしない。そういう世の中になっていくといままで神様が頑張って私たちを護ってきてくださった、助けようとした思いが無になってしまう。すると「この国に留まっていてもしょうがないなー」と思われてこの世から天にお帰りになってしまわれるのだという。いままさにそのような状況だといえないだろうか。みんなが悪口を言い合ったり他人の不幸を自分の喜びとするようになるとこの国が陰の気に包まれてそこが心霊スポットのようになってしまうらしい。幽霊が集まるとかそういうことではなく、あらゆる不幸や災いが集まってくるということだと思う。

 

三災の中のひとつに「疫病」というものがあり、三木住職はお経に照らし合わせて2020年より前の時点で「これから疫病が蔓延する」と確信したのだそうだ。ちなみにノストラダムスの大予言のときには前兆はなかったが、「今回は前兆があるから私は言っているのです」と三木住職は仰っていた。

そして三木住職が疫病の蔓延の次に来ると仰っていたのが、「穀貴(こっき)」という災いだ。穀貴とは飢饉などが起きて穀物などの価格が高騰したり品切れしたりして手に入らなくなるという災禍だそうだ。三木住職は「少なくとも私が生きている間に世の中は混乱する」と言い、多少言葉を濁しておられたが、穀貴は2024〜2025年の間には食べ物が不足し始めるのではないかと予測しておられた。最後に来る「兵革」の前に起こる現象もお経の中に書かれているそうなので、どうなったらそれが起きてしまうのかも知りたいところだ。

三木住職は直接「怪奇妙法伝」で触れてはおられなかったが、三災の残るひとつは「兵革(ひょうかく)」という災いで、これは文字通り戦乱や革命で世の中が乱れる災いだ。三木住職はこれら「穀貴」「兵革」が起きる前に世の中をなんとかしようと怪談説法に名を借りて活動されているようにお見受けできる。普通、末法思想とか終末思想というと世の中が乱れて人類滅亡という結末になるが、三木住職がおっしゃるにはお経の中にはそうならない方法(助かる方法)もちゃんと書かれているそうで、それを広めるために「怪奇妙法伝」も作られたのだろう。

その、世の中を終わらせない方法とは何か。三木住職は日蓮宗のご僧侶だが、日蓮宗に入れとか何かの宗教をしなさいということは訴えておられない。ただ、私たち一人ひとりが「徳」を積む生活をすることが神仏が戻ってきてくれる世の中を取り戻す方法だと仰っている。それは人に親切にすることだったり街に落ちているゴミを拾うことだったり電車でお年寄りや病気の方に席を譲ることだったりと誰にでもできることだ。

ということで私は何の徳を積んでいこうか、神仏を日本国にお戻りいただくために何をしようかと考えた。こっそりやっているゴミの日の前夜のゴミ拾いを続けること、仕事で仲間が大変そうだったら進んでお手伝いすること、電車で席を譲ること、人に接するときは笑顔でいること。そして、毒を吐かないことだと思った。ブログやTwitterで人に対する悪口や批判、読む人の恐怖を煽るようなことは書かない。不平不満、愚痴、泣き言、文句、悪口を言わない。そういう身の回りのできることからすぐにやっていこうと思った。

「怪奇妙法伝」は怪談だけを聞きたい人には物足りないし小難しいしつまらないだろうと思うが、私は怪談抜きでもっと詳しくお経の話を聞きたいと思ってしまった。三木住職もきっと本当はもっと本格的にお経のことを語りたいのではないかと勝手に勘ぐってしまったりもする。お経にはお経の中にすでにブラックホールの存在が書かれていたり量子力学的な話がかかれていたりもするらしいのでそういうことにもすごく興味を惹かれる。

そういえば、奇しくも明日10月13日は日蓮の命日だ。毎年10月11日〜13日まで日蓮入滅後にある東京の池上本門寺ではお会式という行事が営まれている。私は仕事があるので行ったことはないが、12日夜には100基以上の万灯という五重塔の形をした明かりを灯した立派な飾りが練り歩くらしい。あ、12日って今日じゃんね(汗)。コロナの縛りもゆるくなって外国人旅行客も受け入れるようになったから今年は盛大に行われたのかな?1回は見学してみたいなあ。