活字の森 思考の迷路

読んだ本や考えたことなど徒然なるままに書いていきます

【映画】憧れを超えた侍たち

 

映画情報

監督/撮影:三木慎太郎

製作国:日本 「憧れを超えた侍たち」製作委員会

公 開:2023年6月

茶々丸的評価:⭐️⭐️⭐️⭐️☆

 

STORY

2021年12月、誰よりも野球を愛し、選手を愛する指揮官・栗山英樹氏の熱き魂の全てを捧げる日々がはじまった。目標は2023年3月開催「2023 WORLD BASEBALL CLASSIC™」での3大会14年ぶりの世界一。史上最強にして最高と言われる侍ジャパンがいかにして誕生したのか。完全密着したチーム専属カメラだからこそ撮影できた試合だけでは見ることができない貴重映像とともに侍ジャパン世界一への軌跡を振り返った完全密着ドキュメンタリー映画

 

 

私は野球が好きである。

今年のWBCがあったからとか、大谷翔平選手が男前だからとか、そういう理由で突然好きになったわけではなく、小学生のときから好きだった。ちなヤクでありちなハムである。

そんな私なので今年のWBCは本当に楽しませてもらった。WBCロスになるくらい楽しかった。なので、今回のWBC日本代表に密着したドキュメンタリー映画「憧れを超えた侍たち 世界一への記録」も当然映画館へ観に行きたかったが、いろいろあって行くことができなかった。悲しいなあと思っていたのだが、なんと上映終了してすぐにアマプラで見られるようになったではないか!本当に本当にAmazonさんありがとう。

 

というわけで、先日やっと見ることができた。

野球好きなら観たら感動すると思う。

試合に密着しただけかといえばさにあらず。

2021年12月に栗山英樹さんが代表監督に選ばれ、白井一幸ヘッドコーチをはじめとするコーチ陣とともに選手選考の会議をするところから始まっている。

ここで栗山監督が一体どんな人物なのかあらためてわかる。本当に野球を愛しているし、選手たちを愛しているし、情熱がある。もしも会社の上司がこんな人だったら、ある意味大変かもしれないが働きがいがあるだろうなと思った。

 

そしていよいよ選手たちも始動する。

大会直前に行われた宮崎合宿。最初から参加したダルビッシュ有選手の献身に感動。

途中から合流した大谷翔平選手とラーズ・ヌートバー選手。大谷選手が入ってきただけで画面の中がパアッと明るくなる。どれだけすごいオーラなんだよ、と思う。

 

この映画はドキュメンタリーだけあって、ダグアウトからベンチ裏まで撮影されているので、試合中の選手たちの心の動きまでもがわかるようになっている。

例えば、3月10日、走塁中に右手小指を骨折しながらも6日後の準々決勝イタリア戦で復活した源田壮亮選手、その決意と栗山監督の苦悩。また、準決勝のメキシコ戦で被弾してベンチ裏で涙を見せる佐々木朗希投手の姿などなど……試合観戦だけではわからないところまで見ることができた。

本当はもっと見たいところもあったけれど、そんなことをしていたら2時間9分の中に収まらないから仕方がない。また、YouTubuにはよくまとめた素敵な動画もあるので、私は未だにそちらも見ていたりする。

そのくらい、今年のWBCは本当によかった。

次回の2026年大会はもちろん監督は栗山さんじゃないだろうし、当然、メンバーにも変更があるだろう。そのときも今年ほど感動できるだろうか。

 

 

ここからは映画の話ではないけれど……

アメリカでは野球人気の衰退は激しく、どうにか若者層のファンを増やそうと今年からピッチクロックが導入された。

2刀流の大谷選手はこのピッチクロックのせいで試合中の疲労が半端なさそうに見える。最近では時間いっぱいまで投手に与えられた15秒を使っているが、それでも投手から打者、打者から投手への頭の切り替えは大変だろうし、何より打席に立つときには普通の野手よりも体を守る装備をたくさん装着しなければならないのでそれも大変そうだ。

私はピッチクロックなんてなくなればいいのに、と最初は思った。

しかし、試合の進行の速さに慣れてしまうとそれはそれで快適さを感じる自分がいる。いまはスピードが重視される時代。私だってYouTubuやテレビで録画した番組を倍速で見たりしているので、やはりいまどきの若者と(ちょっとだけ)同じように長尺のものは見ていられない体になってしまったのだと思う。

しかし、ドカベンの山田と里中のドラマはピッチクロックがない時代じゃないとできなかっただろうな。すっごい長々とテレパシーのような会話が繰り広げられてたからな。

そうそう、ドカベンで思い出してしまったけれど、エンゼルスのフィル・ネビン監督。監督としてはまだまだ経験が浅いせいか、もうちょっと頑張ろうよとか爪が治っていない翔平を投げさせるなよ!とかいろいろ思ってしまうんだけど、彼を見ていると「野球狂の詩」の五利監督を思い出しちゃうんだよな〜……なぜでしょうか。

そして、「ドカベン」「野球狂の詩」の作者・水島新司先生がご存命だったら大谷選手のいまのMLBでの活躍を本当にお喜びになっただろうなと思う。

 

顔が似ているとは言い難いが、大谷選手を殊更オトコマエに描いていないところがミソなんだろうか。

そしてプロ野球ファンはこの”夢”を、いつまでも見ていたいのです。1日でも長く……」という言葉にじーんとくる。

本当に1日でも長く見ていたいと思う。だから、いまエンゼルスの投手陣が壊滅状態なのはわかっているが、爪が完治するまで投げさせないでほしいと思ってしまう。大谷選手は責任感が強いし、胃腸炎でも投げてしまうような選手だから、投げてくれる大谷選手に甘えるのではなくて逆に断固止めてほしいと思ってしまう。大谷翔平エンゼルス大谷翔平なだけではない。いまやMLBを代表するスターのひとりだし、それ以前に日本の至宝だ。日本の宝の選手寿命を縮めるようなことは本当にやめてほしい。渡米してすぐに怪我に泣いた大谷選手をチームとして大切にしてくれたことには感謝しているんだけれども。

あ、映画の感想よりも長くなってしまった!(笑)

 

そうそう、「憧れを超えた侍たち」をまだご覧になっていない方は最後の最後まできっちり観てくださいね。もう終わったと思って気を抜いたところでおまけが出てきます。

このおまけが実にいいです。

 

 

 

ジェンダーレストイレと乙女の恥じらい

news.yahoo.co.jp

 

現在、世の中を「ジェンダーレストイレ」なるものが騒がせている。

「誰ひとり取り残さない」と謳っているが女性は取り残されている。その問題点については大勢の論客たちが発信しているのでここでは書かない。

けれど、私はこのジェンダーレストイレのニュースを見て「恥じらい」というものについて考えてしまったので、そのことについてつらつら書いてみようと思う。

 

日本は恥の文化だと書いたのはアメリカの文化人類学者ベネディクトだった。あ、日本は恥の文化って「日本の文化は恥ずかしい」という意味ではありませんよ、念のため。

日本は恥の文化というのはベネディクトが著書「菊と刀」で用いた文化類型で、西洋は個人個人が良心による内面的な罪の自覚に基づいて道徳的な行動を取る「罪の文化」、日本人は他人からの非難や嘲笑を恐れて自分の行動を律している「恥の文化」、だと考察したもの。

この考え方だと西洋人は人が見ていようが見ていまいが自分が罪を犯してしまえばその罪に悩むのに対し、日本人は人が見ていなければどんな行いをしようが恥ずかしくないし思い煩わない、ということになる。これだと日本に昔からあった「お天道様が見ている」という道徳観がまる無視されているような気がするが……。

というか、私がここで書きたい「恥じらい」はこの「恥の文化」のこととも違って、普通に女の子や大人の女性が感じる「恥じらい」についてだ。

 

昔、中国のトイレには個室などなく、ただ単に長い溝があり、人がいようがいまいがそこをまたいで用を足すと聞いた。車の縦列駐車のように自分以外の人と並んで用を足す形だ。要するにノープライバシー。

韓国でも家のキッチンに便器がある家の写真というものをネットで見たことがある。

中世ヨーロッパでは壺の中に用を足してそれを窓から捨てていた。だからそれを踏まないようにハイヒールが発達したなんて話もある。

そんなわけで、海外では昔から排泄にも排泄物についてもそれほど「恥じらい」はなかったのではないか。

 

一方、日本では昔からやんごとなきお方が用を足すときには水を入れた瓶の中に小石を落として音をごまかしていた。

江戸時代にはおならの音を「私がしました」と身代わりになってくれる「屁負比丘尼(へおいびくに)」という職業もあったらしい。その江戸時代にはある女性がお見合いの席でおならをしてしまったことを苦にして自ら命をたってしまったという悲劇があったという。

現代においてもデパートなどの共同トイレの個室に設置してある「音姫」はなくてはならない存在だ。女性しかいない女子トイレでも「音姫」は必需品。

ちなみに、「音姫」登場前の時代の女性たちはトイレットペーをわざと大きな音を立てて巻き取ったり、水を流しなら用を足すことでなんとかごまかそうと苦心してきた。

 

何がいいたいのかというと、日本の女性は何世紀もの間、排泄することにものすごく恥じらいを持って生きてきた、ということだ。それはもうDNAに刻まれているし、立派な文化だと思う。日本が世界に誇っていい乙女の恥じらいの文化だ。それが多様性だと思う。排泄に対してオープンな人も否定されない、恥じらいのある乙女も無視されない、そういうのが本当の多様性ではなかろうか。

海外のオープンさもそのお国に行けば素敵なことだと思う。

ジェンダーのことで差別される人が出るのもいけない。

けれども、日本の乙女の恥じらいをいま突然急に蹂躙するとはどういう了見なのだろう。乙女が恥じらうところを見て喜ぶ変態さんたちなのだろうか。

一部のLGBTのみなさんのために日本の大勢の乙女の恥じらいは蹂躙されてもいいというのか。ジェンダーレストイレを普及しろとか進めている政治家とか偉い人って、ご自分の奥様やお嬢さんが恥じらいを蹂躙されても平気なのだろうか、そんな優しくない親でありパートナーなのだろうか……とジェンダーレストイレのニュースを見たり読んだりする度に考えてしまう。

 

日本の乙女は本来可憐なのです。歌舞伎町タワーのジェンダーレストイレにはお金を稼ぐためのたちんぼさんがおられるそうだが、そういう感性の子はごく一部だと思う。

日本の乙女の中にはティーンエージャーの頃、初めてのデートのときに膀胱が爆発しそうになるまで「トイレに行きたい」と言えない子もたくさんいる。好きな男子の前でトイレに行くことに抵抗があるのだ。そういう子たちにつらい思いをしてほしくないし、これからの時代は排泄に恥じらいを感じるなと教えるのも違うような気がする。

 

そうそう、話は多少それるが、日本の恥じらい乙女は排泄だけでなく食べることにも恥じらいを感じる。そのことをいまは一体どれだけの人がわかっているだろうか。

昔、そんなことがよくわかるエピソードがあった。高校時代、私の部活の後輩の女の子に好きな男子ができた。彼女の思いが本当にいじらしかったので、周囲の友だちのバックアップもあってなんとかデートにこぎつけた。男の子は「デートのときに一緒にランチを食べよう」と言ってくれた。本当なら有頂天になって喜びそうなものだが、彼女はそれで大きく悩んでしまった。

「どうしよう、どんな顔して食べればいいんだろう」

と。どうやら男の子はピザかハンバーガーを食べに行こうと言ったらしく、彼女は

「そうじゃなくても食事だけでも恥ずかしいのに、そんな大きな口開けて食べるものなんて、どうしていいかわからない」

と涙目になりながら部室で悩んでいた。

「じゃあ、別のお店にしてもらったら?」

と誰かが言うと

「せっかく選んでくれたお店なのに、嫌だなんて言えない……」

「じゃあ、いまから食べる練習すれば?」

と言えば、本当にそうしそうな勢い。

けれども、私も他の部員たちもなんとなくその子の気持ちがわかるのだった。

好きな人と人生で初めて食事に行くって、向かい合って座るだけでも緊張するのに、食べるなんて動作も加わると緊張が2倍にも3倍にもなるよね、と。

大人になれば男性と食事に行くくらいで緊張なんかしなくなるが、人生初デートの年代の乙女たちには重大な問題。そんな子たちにジェンダーレストイレなんてなおさら使わせたくないなと思ってしまう。大人のおばさんだって、女性しかいない女子トイレで「音姫」を使うのに。大人のおばさんだって男性がいるトイレで用を足すなんて嫌なのに。しかも、若い子はおばさんよりもっと犯罪に巻き込まれる可能性は格段に高くなる。いまは一部の建物のトイレだけがジェンダーレスだが、これが日本中に普及してほしくない。

 

そして、当のLGBTの方たちもジェンダーレストイレを望んでいるわけではないという。

news.yahoo.co.jp

www.nikkansports.com

otomejuku.jp

 

当事者たちの意見を吸い上げずにジェンダーレストイレを推進したりしている「活動家」の方たちは何のために活動しているのだろう?

何かの利権があるのだろうか?

利権とまったく関わりなく見返りも求めない「活動家」なみなさんはもしかしたら代理ミュンヒハウゼン症候群的な何かなのかな?

それとも当事者の思いはどうでもよくて誰かのために頑張っている自分が素敵、みたいな感じなのかな?

それとも毒親さんが「あなたのためを思って」って言うのと同じような心理なのかな?

 

何だか「多様性、多様性」と言われるようになって多様性がぐんぐんなくなってきているのが気になる今日この頃なのであった。

 

 

 

【読書】神との対話1

人生のどん底にいた著者のニール・ドナルド・ウォルシュは1992年春、神に宛てて手紙を書いた。人生の理不尽に対する恨みつらみ、不平不満を包み隠さず、なぜ自分の人生はこんなにもうまくいかないのか、神にたくさんの質問をぶつけた。最後にした一番大きな質問は「こんなにもがきつつけていなければならないなんて、わたしがいったい何をしたというのか」というものだった。回答のない苦々しい質問を書き終えてペンを置こうとしたが、ニールの手は何者かに押さえつけられているかのように紙の上に乗ったままで、ふいにペンが勝手に動き始めた。神がオートマチック・ライティング(自動書記)でニールの質問に答え始めたのだ。これが、「神との対話」の始まりだった。

 

スピリチュアル、引き寄せの法則好きな私は以前からこの本の存在を知っていた。

しかし、なぜだか読む気にならず手にとったことはなかった。

それがどうした気まぐれかKindleでダウンロードして読み始めることになった。

ところが、読み始めたはいいが、最初は全く頭に入らなかった。

こんなに読み進められない本は「なまけ者のさとり方」以来だなあ……などと思いつつ、なんとかして読み勧めていくとそのうちにすらすらと読めるようになり、毎日30分くらいずつ読んでいたのだが、続きを読むのが待ち遠しくなった。

この本を読んで感じたことをメモ書きの要領で書いていく。

 

神は言う。

「ひとの思考も行動もすべて、愛か不安か、どちらかを根拠としている。ほかの考えはすべて、この二つから派生したものだ。単なるヴァリエーションで、同じテーマが変化したものにすぎない」

 

これは目からウロコだった。言われてみれば確かにそうだ。愛はなんとなくわかりやすいが、不安というのは頭になかった。確かに、戦争も「他国に出し抜かれる」「他国にやられる」という不安が出発だろうし、親しい人とのケンカも不満も自分を認めてもらえないことへの不安のヴァリエーションかもしれない。

 

私自身もそうだが、日常生活で不満を抱くことはたくさんあると思う。こんなはずじゃなかった、もっと恵まれた人生がよかった……そんなふうに思うこともある。

しかし、引き寄せの法則を知った私はそういう考え方こそが「もっと恵まれた人生がよかった…」と思い続ける人生を引き寄せるのだということをわかっている。しかし、わかっていても状況が逼迫してくるとどうしてもいつの間にかそんな思考になってしまうこともある。

そんなときにハッとした神の言葉がこちら。

「自分が想像したなかで、楽しめず、祝福できないものがあったら、選びなおしなさい。新しい現実を呼び出しなさい。新しいことを考え、新しい言葉を口にし、新しいことをしなさい。立派にやりなおせば、世界はあなたについてくるだろう。「私が生命であり、道だ。ついてきなさい」と言いなさい。これが神の意志を「天国と同じく、地上にも」実現させる方法だ」

 

ああ、そうか。いつでも、どんなときだって選びなおせばいいんだ。

私はこの「選びなおしなさい」という言葉にものすごい勇気をもらった。私は選びなおす。

そしていま、選びなおしている最中にいる。

 

「人生を「上向かせる」には、まず人生についての考えを明確にしなければならない。どうなりたいのか、何をしたいか、何が欲しいのか、よく考えなさい。はっきりするまで、考えなさい。そして、はっきりしたら、今度はほかのことは考えず、ほかの可能性を想像しないことだ」

 

そうなのだ。ほかの可能性を想像するからなりたい自分に、なりたい状況になかなか近づかないのだ。しかも、理想よりも不安のほうがなぜか想像しやすいし、そこに感情が入り込みやすい。引き寄せの法則は「考えた通りの現実になる」のではなく「感じている感情通りの現実になる」法則だから「ほかの可能性=不安」になるのはかなりよろしくない。

だからといって心配する必要はない。不安を感じるときには自分が間違った方向に行っているというサイン、感情のナビゲーションシステムが働いているときだからだ。

不安が頭をもたげて仕方ないときも人間だからある。そんなときには自分が熱中できることをやり始めればいい。絵を描くのでも、手芸でも、ペットと戯れるでもなんでも。

 

「あなたが考え、語り、行動すると、具体的な現実になる」

 

「創造が具体化する前に、創造に感謝することだ。願いは当然かなえられると信じることだ。そう信じてもいいどころか、信じたほうがいいのだ。それこそが悟りの確実なしるしだ。すべての<マスター>はあらかじめ、ことが成就することを知っていた」

 

考え、語り、行動することが現実となる。

これは東洋の仏法と共通する考え方だ。仏法には「身口意の三業(しんくいのさんごう)」というものがあると聞いたことがある。

人間のあらゆる行いが業(カルマ)を作り出す。これを体で行うもの(身業)、発する言葉(口業)、心で感じたり考えたりすること(意業)に分けたものが身口意の三業で、悪いことを考えて、悪いことを言って、悪い行いをすると悪い現実を作り出すよ、といった意味になるかと思うのだが、東洋でも西洋でも神でも仏でも現実創造システムに差はないんだなと感じた。

 

そして、私がこの本で一番おもしろいなと思ったのは、神様が地上の宗教に対して感じている不満だ。

「ばかにしているのは、あなたがたのほうだ。あなたがたは、わたし、すなわち神が本質的に不完全な存在を創りながら、完全であることを要求している、完全でなければ地獄に落とそうとすると言う。

それから、世界が始まってから数千年したところでわたしが態度をやわらげ、これからは善である必要はない、善でなかったときに悔いて悲しみさえすればいい。そしてつねに完璧でありうる神のひとり子を救世主として受け入れればいい、そうすれば、完璧さを求めるわたしの飢えは満たされると言った、と言う。あなたがたは、私の子──完璧な神のただひとりの子──があなたがたをそれぞれの不完全さから救った、私が与えた不完全さから救ったと言う。言い換えれば、神の子は父である神からあなたがたを救ったことになる。これが、あなたが、そしておおぜいが考えている神の行いだ。さあ、ばかにしているのはどちらかな?」

 

たしかに、神は自分に似せてというか自分のコピーとして人を作ったのに、完璧じゃないから罰を与えると思われたら、人間が神の価値を侮っているというか、貶めていると上に感じられても仕方ないよな、と思う。

この本の神は自分を知るために、さまざまな経験を体験するために自分と同じもの(人間)をたくさん作って送り出した。

なので、本質的には善や悪も存在しないという。地獄という存在もないと言う。

そんな考え方を受け入れられない人は多いかと思うが、私はすんなりと腑に落ちた。

 

神様は人間に完璧を求めていない。

いまある状態で完璧なのだと思っている。

いま決してうまくいっていない状態の人に対してもその経験をするためにその人は存在しているのだと受け入れる。そしてそのうまくいっていない状況から抜け出したいのならば抜け出せるように「選びなおしなさい」と助言する。どうしたらもっとその人が願った通りに生きられるようになるのかアドバイスをする。

それなのに、聖職者や信仰を持つひとたちは神様のお眼鏡にかなった行動をしないとバチが当たるよ!と言う。神様は空から見ていて情けないだろうなと思う。

 

「あなたがたは僧侶やラビ、牧師、教師のもとへおもむく。彼らは自分の心のなかの声に耳を傾けてはいけないと言う。いちばんひどいひとたちは、あなたがたをおどし、おびえさせて、直感的に知ったことを捨てさせようとする。彼らは悪について、悪魔について、魔物について、悪霊について、地獄について、呪いについて、考えつく限りのあらゆる恐ろしいことを語る。そしてあなたがたが直感的に知ったことは間違っている、慰めを見いだすべき唯一の場所は彼らの思想、考え、教義であり、彼らが定義する正邪であり、彼らが考えるあなたがたの姿であると説得する」

 

確かに、神は聖職者によって都合のいい存在に作り変えられているような気がする。

これは宗教だけでなく共産主義とかそういった思想信条もやっていることは同じだ。

 

 

この本の解説をお書きになった田口ランディさんはニール・ドナルド・ウォルシュに直接インタビューし、何度か彼の状態が変化し、口調が変わる様を目撃している。

 

特にウォルシュ氏の口調が変わったのは「人間の覚醒」について触れたときだった。

「本当に世界を変える時期に来ている。今のような状態で私たちはずっと生きていくことはできない」

 と、彼は強い口調で断言したのだ。威厳に満ちた低い声だった。ウォルシュ氏は終始ソフトで柔らかい口調で話す。断定形は極力避ける。だからこそよけいに口調の変化が際立ったのだ。

 もし、彼と対話をしている神が、彼の言葉を借りて私の前に顕現しているとするなら、その神様はけっこう厳しそうで怖いな、と思った。

 

そして、田口ランディさんはこの神様は「自分に直接話しかけないし、出て来てもちょっと威張っていて怖い」しランディさんには「お節介すぎる」ということでこの神様のことは好きではないという。アドバイスは受けるけど、言いなりにはならない、というスタイルのようだが、解説を書く人がここまで批判的(?)なのもめずらしくて面白いと思った。

確かに、ランディさんが書かれていたようにグローバリゼーションの考え方が強い神様の思考は日本人には受け入れがたいというのもわかる。

けれども、元来人の話を聞くのが好きな私はこの神様もちょっと好き。もっといろいろな話を聞きたいなと思う。人生について、生命の真理について、宇宙について、その他のもっと下世話なことでも、神様はどんなふうに考えるのだろう、と。

 

 

 

ワタシ的、YouTube動画制作の裏側

 

最近、我ながら継続してやっているなあと感心するのがYouTube動画づくり。

今年の1月に実話超常現象 信州不可思議堂というちゃんねるを立ち上げて毎週1本公開している。何を恥ずかしげもなく自分で自分に感心しているのかというと、私は子どもの頃から飽き性で、何かを始めてもすぐに興味を失って長続きしないから、1ヶ月以上継続できているのが奇跡的なのだ。

 

始まりは「久遠悠嘉奇譚集」というKindleのシリーズを出版したことだった。

私には取り立てて取り柄と言えるものがなく、人と少し違うのは幼い頃から超常現象を目の当たりにしてきたことだけだったので、それらの体験をまとめてみたいと思ってKindleにした。

そして、YouTubeで大好きな中武優の不思議な館を見ているうちに「ああ、中武さんが私の書いた実話超常現象をベースに1本だけでも動画を作ってくれたら、もう思い残すことはないのになあ……」などと大層恐れ多い願望を抱き、「けれど、自分の話で作ってくださいなんて失礼なこと言えない」という至極真っ当な理性でそれを抑えていた。しかしある日、「じゃあ自分で作ってみようかなあ……」と思い立ってYouTubeに挑戦を始めた次第だ。

 

中武さんのようにVYONDを使って楽しいアニメを作れるわけではないので、手持ちの動画や写真をベースに編集するしかない。

本当は大好きな信州を宣揚するために信州の風景を使いたいたのだが、自分自身は東京在住なのでそれが思うように行かないのは歯がゆいところ。協力者の方々に写真や動画をいただいてもいるが、10分の動画を毎週使っているとすぐに底が尽きてしまう。

それでも、画像がないことを理由に週1回の更新をしないのはいやだなと、フリー素材を使ったり、自分の家の中を撮影した動画を使ってお茶を濁している。早く信州の美しい風景をふんだんに使えるようになりたい。それには私自身が生まれ故郷の松本へ帰るのが一番いいのだが……。

 

また、本当はナレーションは自分自身で読むつもりだったのだが、いま住んでいる家がなかなかにぎやかな場所にあるのでそれも諦めるしかなかった。

そこで、代わりにAIに朗読してもらおうとVOICEVOXというテキスト読み上げソフトを使っている。自分の声に近いキャラがいないのでなんとなく違和感を覚えることもあるが、こんな便利なソフトが無料で使えるとはいい時代に生きているなと思う。

ただし、これから使ってみようかとお考えの方のために多少使いづらく感じている部分も書いてみる。

私が愛用するMacとVOICEVOXの相性が悪いせいかもしれないが、音声をつなげて書き出すと言葉と言葉の間に間隔が取れず、ずーっと息つく間もなくしゃべっている感じになってしまう。開始無音、終了無音の時間を設定できるのに、いくら設定しても書き出すとその設定が反映されていない。なので毎回iMovieで音を編集する羽目になってしまっている。はじめの2本くらいは音声編集がうまくできずにVOICEVOXで書き出したまま使ってしまっているのでナレーションがとても慌ただしいが、そこはご愛嬌ということにしている。

また、音量も少し低めなので若干上げる必要もある。キャラによって音量の違いもあるので、あまりに違うときにはキャラとキャラの間で音声ファイルを分割して音量を調整することもある。VOICEVOXたくさんのキャラがいること自体はとてもうれしく感謝しているし、これから動画づくりをやってみようという方にVOICEVOXがオススメできるポイントでもあると思う。

また、最初はゆっくりMovie Makerでゆっくりボイスを使って作りたいなと思っていたのだが、そちらはMacでは使えなかったためVOICEVOXを使って作ることにしたという経緯もある。YMM、Macでも使えるようにならないかなあ……。

 

編集はMacに標準装備のiMovieか無料デザインツールのcnvaを使用(私はcanvaは有料会員になったけれども)。これも私のような素人が簡単に動画編集ができて、本当に便利になったなあと思う。最初はiMovieの使い方がさっぱりわからなかったが、ググって使えるようになってきた。こういう技を無料でネット公開してくださるみなさまにも本当に感謝だ。

音楽や効果音もフリー素材をふんだんに使わせていただいている。

 

要するに私の動画は、信州の画像を快く使わせてくださる方々やVOICRVOXやcanvaやその他フリーで画像や音楽や効果音を提供してくださる多くの方のご厚意で成り立っているのだ。本当に感謝するしかない。もちろん、YouTubeというプラットフォーム自体にも感謝。

まだまだ私のチャンネルは認知度も低いし、チャンネル登録者も視聴回数も時間も少ないが、それでも、その少しの方々だけでも楽しみにしてくださるのなら、これも本当に感謝以外ない。

あとは、みなさんに楽しんでいただけるように腕を磨くのみと思っている。

 

 

 

冬にはももひきが必要らしいとやっとわかった件

 

それは長年の疑問だった。

冬の期間、なぜみんなお尻が出るくらいの短いジャケットで平気なのか?

お尻や太ももは寒くないのか?

「動きやすいじゃん」とある知人は言った。

動きやすくてもお尻が冷たいと嫌じゃない?と思ったけれどそれは言わなかった。

いくらダウンジャケットでもお尻や太ももが隠れないのでは怖くて故郷の信州へは帰省できない(いやもう何年も帰ってないけど)。

いくらおしゃれのためでもお尻と太ももが寒いのは嫌だなあ。

そんな私はロングコート一択なのである。

 

ところが先日、駅に向かって歩いているときに突然わかった。それまで考えていてこととは全く関係なく、何の脈絡もなくそのひらめきは私の頭の中に突如としてやってきた。それは

「そうだ、みんな多分パンツの下にももひき、ズボン下、スパッツ、ヒートテック、暖パン、なんかそんなようなやつを履いているのだ!!!!」

ということだった。なあああああんだああああ、そういうことだったのかと、それはもう「ユリイカ!」と叫びたいくらいに積年の謎が一瞬にして氷解したのだった。もしかしたら神の啓示と言ってもいいかもしれない。

私はそのような装備を何十年もしていないため、そんな簡単なことがわからなったのだ。

みんながパンツの上にヒートテックももひきその上からズボンだとしたら、私はパンツにズボン以上!で何十年も過ごしている。だからロングコートじゃないと寒いと思っていたのだ。

どうしてそんなことになったかというと、私は子どもの頃、剣道を習っていた。剣道場では夏でも冬でも胴着の下は男子はパンイチ、女子はブラも許す(場合によってはTシャツやキャミソールも)だったので、その装備のまま生きてきたのだった。それに、たま〜にズボンの下にタイツを履いたことはあるけれど、ズボンとタイツの摩擦が気持ち悪くてあまり重ね履きをしたくないのだ。

しかし、剣道場に通う以前は毛糸のパンツとかズボン下とか履かされていたという記憶もももひきユリイカとともに蘇ってきた。剣道は大して上達しなかったが、寒さにだけは耐性ができたようだ。

まあ、東京は暖かいからずっと屋外にいるのでなければ上着さえ暖かければ下は秋物の洋服でも過ごせるんだけどね。そういえば、上京してきたばかりの頃、ダウンコートの下は半袖Tシャツという人を何人も見かけて信州人の私は驚いたなあ……。信州は(松本、安曇野塩尻だけかもしれないけど)室内も寒いからなあ。

 

 

 

やさしい光景

先日、住宅街を歩いていたら素敵な光景を目にした。

ふと前方を見ると交差点のかなり手前で左折のウインカーを出したままちっとも曲がらないワンボックスカーを見かけた。

あまりにも動かないのでどうしたのだろうと思ったが、交差点に来てその謎が溶けた。

曲がり角に手押し車に幼児を満載にした保育士さんがひとり。そしてあちこち勝手な方向に歩いていこうとする3〜4人の幼児を一生懸命まとめようとしている保育士さんがもうひとり。

ワンボックスは保育士さんを焦らせないように、また幼児を怖がらせないように、彼らが交差点を去っていくのを離れた場所で待っていたのだった。

運転していたのはお孫さんがいても全然おかしくない年齢にお見受けできる男性だった。

保育士さんと子どもたちを見守る目がとても優しかった。

もしかしたら自分の子どもの小さい頃かお孫さんのことでも思い出していたのかな?

こういう人生経験の現れ方はすごくいいなと思った。

私はまだ動かないワンボックスを追い抜きざまにこの運転手さんに雪崩のごとくよきことが起きるように呪いをかけた(笑)。

ワンボックスカーはどこかのおしぼり業者さんの配達の車だった。優しい運転手さんにお仕事でもいいことがたくさんあればいいなともうひとつ呪いをかけた。

ニュースでは怖くなるようなこと不安になるようなことばかり目にするが、身近なところにはまだまだ心が洗われるような出来事がある。不安の種を撒き散らすよりも小さなしあわせをあつめて明るい気持ちでいたいと思う。

その意味であのおしぼり屋さんの男性は私にもハッピーを分けてくれたのだった。

 

 

 

私が実話超常現象を書く理由

何ヶ月もかけて書いていたKindle本を今日やっと出版することができた。

クリスマスイブの日に間に合ってよかった。というのは表向きの話で、実は12月24日は私にとってはクリスマスイブではなく母の命日なのでその日に出せればいいなと思っていた。

しかし、何も感傷的になってこの日を目指していたわけではなく、何か目標になる日がないとズルズルと先延ばしにしてしまいそうだから年内に出すのならば丁度いいからこの日にしようと思っただけなのだ。母上、命日を目標日に使わせてもらってありがとう。

 

前作「久遠悠嘉奇譚集①魂のいとまごい」と同様に今回も超常現象の話だが、「魂のいとまごい」は家族や身近な人が亡くなったときに私に起きた不思議な現象を書いたものだが、今回出版した「久遠悠嘉奇譚集②時空のゆらぎ〜入り乱れる平行世界に翻弄される日々〜」は自分自身が平行世界を移動しまくって困った話やケガレチに住んでいたことで不幸に見舞われた話などを集めた。実話超常現象にご興味のある方は是非お読みただきたいと思う。

 

本にも書いたことだが、私が超常現象に興味を持つようになったのは育ってきた環境が大きく影響している。祖母も母も霊感が強く、家庭内で不思議な現象が頻発していたことや、子供の頃のテレビは超常現象やUFOを扱った番組が多かったからだ。

祖母も母もしょっちゅう幽霊やら何やら目撃していたし、母は頻繁に幽体離脱していろいろなところを見てきたり肉眼ではっきり見えるような生霊を飛ばすような人だった。

私が子どもの頃に住んでいた古民家にはトイレの前に女の地縛霊がいて、その地縛霊を見ないようにトイレに入るのにとても苦労をした。

そんな環境で育ったのであまり抵抗感なく超常現象について考えるようになった。

しかし、ここだけの話、私は超常現象をなんでもかんでも信じているわけではない。何なら自分の身に起きた不可思議な現象でさえ「いまの出来事は何かの錯覚だったのではないか」と毎回考える。そして、どうしても錯覚では片付けられない出来事だけを厳選して書いたのだ。

次回は未確認飛行物体との遭遇について書こうと考えているが、実は実生活では自分が体験してきた超常現象の話なんてできないんだよなー。頭おかしいんじゃないかと疑われてしまうから。よほど親しい人じゃないと「幽霊をみてしまった」とか「母の生霊と戦った」とか「時間が巻き戻った」なんて話はできない。親しい人でも超常現象にアレルギーのありそうな方の前では絶対にこんな話はしない。それだけに本にするときにはしっかりと気持ちをこめて書いた。たくさんの方に楽しんでいただければいいなと願っている。