活字の森 思考の迷路

読んだ本や考えたことなど徒然なるままに書いていきます

戦没地 東部ニューギニア ワテリ

小学生のときに父をなくして以来、父方の親族とまったくの没交渉になってしまった。

自分の家から連絡を取ったこともないし、先方から連絡があったとも聞かない。

ただ、大人になってから「あれ?もしかして勝手におばあちゃんに連絡してみればよかったんじゃね?」と気づいたが、それまで母方の親族やいろいろな大人たちに悪いような気がして自ら連絡を取ったことはなかった。そんなわけで私は戦死したという祖父の名前もよく知らずに……というか、何となく覚えてはいたが確証の持てないまま大人になった。

それでも父方祖父の名前をちゃんと知りたいとはずっとずっと想い続けていた。数年前に「そうだ、戸籍を辿ればいいんだ」とNHKファミリーヒストリーを観て気づき、戸籍を辿って家系図を作った。そのときに父方の祖父の名前が自分の記憶通りだったことがわかった。

 

家系図を作った私は次に父方母方両方の祖父の軍歴を照会した。

母方の祖父からは軍隊にいたときの話を何度も聞いたことがあった。母方の祖父は自ら海軍兵学校に行った海軍さん。「戦闘機に乗っている米兵の顔が見えるほどの接近戦になったこともあったが、戦っている最中は怖いなんて思わなかった。しかしいま戦争映画を観ると戦争は恐ろしいなあ」と語っていたこともあった。

 

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対して父方の祖父は召集されて歩兵第150連隊第76中隊というところに入れられた陸軍さん。軍歴には昭和19年の11月に東部ニューギニアのワテリというところで戦死という記載があった。東部ニューギニアといえば言葉にできないほどの悲惨な戦地だったことが知られている。私はワテリという場所が東部ニューギニアのどこにあるのか調べた。しかし、Google Mapsでも地図帳でもワテリという場所はみつからない。広尾にある東京都立中央図書館まで行き戦時中の地図などを閲覧したがワテリを見つけることはできなかった。もちろんワテリという地名・言葉はネットの検索エンジンにも引っかからない。ときどき長野県ニューギニア会のホームページも訪れているがワテリという地名は出てこない。会報「椰子の樹」を読んでみると毎年のように会員のみなさんが慰霊や収骨のためにニューギニアを訪れておられるが、ワテリに行ったという記事はない。父方のおじいちゃんは一体どこで亡くなったのか。写真を見たことすらないので顔も知らないおじいちゃん。どんな仕事をしていたのか、どんな人柄だったのかさえ知らない。ただ、戦地から帰ってきた骨壺には誰のものかわからない爪が入っていただけだったという話のみを覚えている。せめてワテリという場所がどこにあるのかがわかったらすっきりすることができるのに。もしもこのブログを読んでくださった方でワテリという場所がどこにあるのかご存じの方がいらしたら、コメント欄で教えていただけると嬉しいです。