活字の森 思考の迷路

読んだ本や考えたことなど徒然なるままに書いていきます

読書「リユニオンズ 死者との再会」

今回ご紹介するのはこちらの本。

 

 

著者のレイモンド・ムーディー博士はアメリカの医師で心理学者。臨死体験を客観的に探求し、臨死体験研究の礎を築いた。全世界で1400万部を超える大ベストセラーの「かいまみた死後の世界」が有名だ。
実際にこの本を読んだのは5年くらい前だと思うが、最近仕事で読み返した。何回読み返しても興味深く、いくつも付箋を貼ってしまう。
この本の何がすごいかというと亡くなってしまった愛する人の霊を呼び出す方法をちゃんとした医師が明かしているというところだ。その方法とは鏡を見つめて変成意識に入ることで鏡の中に亡き人が現れて実際に会話ができるという「鏡視」だ。場合によっては鏡から抜け出して触れることもできるという。ムーディ博士はその鏡視を使って死者と出会うことのできる「プシュコマンテウム(サイコマンテウム)」という施設を自分が所有しているアラバマ州の粉ひき小屋を改装して作り上げた。それらの詳細については今月中に出版予定のKindle本でも紹介するので、できたらそちらもお読みいただけると泣いて喜びます。Kindle本についてはまた告知させていただきますのでよろしくお願いいたします。
 

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私は子どもの頃から死に魅せられているところがある。「死にたい」ではなくて「人は死んだらどうなるのか」「死後の世界は本当にあるのか」「魂は本当に存在するのか」「死後の世界とはどのようなところか」ということに強い関心があるのだ。言い換えれば魂の永遠に興味があるのだ。
それはもう運命づけられていたのかもしれないと先日ふと思った。ニュースで葬儀の場面が写ったときに幼い頃の記憶が甦ったからだ。
 
それはまだ就学前のある日。
私は父に連れられてどこか人がたくさん集まっている場所へ行った。畳の部屋に大人ばかりがたくさんいる。その部屋の中にはベニヤ板のような木でできた大きな箱と小さな箱がひとつずつ並んでいた。父は知らないおじさんと話をしている。退屈になった私はその木箱をさわりながら父に
「お父さん、これなあに?」
と聞いた。父はあわてて私の手を引っ張り
「こら、触るんじゃない!」
と言った。怒っているというよりも、周囲の目を気にしてたしなめる、といった感じだった。そして私は再び父に手を引かれてその場所を去った。
小学生になってからそのできごとを思い出し、あれは何だったのか母に尋ねたことがある。すると母は
「ああ、お葬式だわ」
と答えた。厳密に言うとお葬式の最中ではなかったようだが、親子が同時に亡くなってしまったために大小ふたつの棺が並んでいたらしい。なぜ父と私がふたりで行ったのか、私とどのような関係にあった人なのかはもう聞くべき両親も亡くなってしまったのでわからない。
けれど、この記憶を始まりにして「死」に対する意識が高くなったような気がするのだ。
また、私は比較的早く死を認識できた子どもで、小学校に上がる前にはすでに死が怖くて夜眠れなくなり、弱冠5歳くらいにして祖母に「死とは夜寝て朝起きるのと同じことで何も怖くない」と諭されたのだった。
そんな風だったからいつも死後の世界について考えていたような気がする。一時はテレビ番組の企画書もそのような内容のものを多く出していたことがあって某制作会社社長に「死ぬことばっかりじゃなくて生きることも考えてください」と言われたことがあった。いや、そういうつもりで考えたわけじゃないんだけど……(笑)。何というか、よく生きるためにあの世のことを考えているというべきか。
ということで、もしも亡くなってしまった方に会うことに興味があるのならムーディ博士の本はお勧めだ。
下にリンクを貼った2冊も面白い。
 

 

 

運動神経が存在しない

今日は箱根駅伝の復路だった。

学生のみなさん、早朝からご苦労だなあと思いつつ暖かいお布団の中で観戦した。我が母校の後輩たちも頑張っていた。まあ、私は生来の運動音痴なので在学中に陸上部なのか駅伝部なのかとも全然接点もなかったが。

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そう、何が苦手って私は運動がとても苦手。よく運動音痴というけれど、自分の中には運動神経そのものが存在していないとさえ思ったものだ。それに体は丈夫だが持久力がない。あきれるほど持久力がない。なのでジョギングはおろかマラソンも考えるのも怖い。きっと駅伝なんか練習すら絶対について行かれない。1分でを音を上げるだろう。

そんなだから本当に体育の授業は拷問のようだった。走る、といっても体をどのように動かしたらいいのかわからない。走るには走れる。けれど多分、正しく体を動かすことはできていない。一体どうなっているのかは自分でもよくわからない。

ただし、自分でも「もしかして運動できるんじゃね?」と感じたことはあった。

それは社会人になってからなりゆきでどうしても義務としてバレーボール大会なるものに出なければいけなくなったときのこと。あのときは本当に憂鬱だった。何が憂鬱かというと団体競技はチーム全員に迷惑をかけることだ。私は周りの人に

「知りませんよ、本当に知りませんよ。サーブなんて打てませんよ、ボールだって拾えませんよっ」

と予め言っていたのだが、みんなは謙遜だと思って

「はいはい、わかったわかった。大丈夫大丈夫」

と全く聞く耳を持ってくれなかった。

 

そして迎えた大会当日。

あれ?

なんか違う。

あれ?こんなんだっけな?

 

ということでなぜか私はサーブを入れることもできたし、レシーブもできた。

一体これはどういうことなのだろう?

青学が優勝して原監督のインタビューを見たときにこれら一連の出来事を何故か思い出し、社会人になってからのバレーだけはかろうじてできた理由が何となくわかった気がした。

原監督は選手にとても優しい。厳しいところもあるだろうが学生の人格を否定するようなことは決して言わないだろう。

私は小学生になってからあまり運動ができないことを先生にすごく傷つく言葉で指摘された。体育のたびにそんなだから余計に身体が動かなくなる。先生がそんなだからクラスメイトにもからかわれる。だから心も体も萎縮して元々苦手な運動がどんどん苦手になっていったのではないだろうか。社会人になってからのバレーボールはその呪いが少し解けていたのかも知れない。毎日体育で罵られるわけじゃないから。

ただし、まだ会社員だった頃、社員みんなでボウリングに連れて行かれたときに歩きながら球を投げるという芸当ができなくて、見るに見かねた隣のレーンで颯爽と投げていた全く見ず知らずのおじさんに指導をされたうえ、その指導通りには全くできなかったことも告白しておく。

 

 

 

消えゆく日本の伝統と新たな風物詩

今年もひとりで年末年始を過ごした。

私は正月飾りなど最低限のことはする方だが「まあいいか」と手を抜いてやらないこともある。おせちや正月料理がそうだ。とりあえずお雑煮を作っても自分しか食べないのでそれほど力を入れて作らない。

そして今日、ふと実感したことがある。

そうか、こうやって日本の伝統は失われていくんだ、と。

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昔、おじいちゃんやおばあちゃんが一緒に暮らした大家族の生活ではおそらく伝統は綿々と伝えられていったことだろう。うちも祖父母が元気でいた頃はお正月のおせちもちゃんと一の重には何を詰めるかなど伝統を守っていたようだったし、祝日には玄関に日の丸を飾ったり、お祝い事があればお赤飯を炊いたりしていた。

けれど、祖父母がいなくなると段々年中行事は簡素化していき、ひとり暮らしとなったいまは本当に最低限のことしかしなくなった。おそらく日本中そうだろう。

その代わり、クリスマス、バレンタイン、ホワイトデー、恵方巻きなどなど商人の考えた行事は定着していっている。作法も礼儀もないし(恵方巻きにはお下品な食べ方の作法があるが)、簡単だから大家族だろうがひとり暮らしだろうが関係ない。

クリスマスもバレンタインも季節の風物詩的なものになったが、昔々の日本の風情はほぼ姿を消しつつある。それを考えると「祝日に日の丸飾ろうかな……」という気持ちになる。祝日の早朝、日の丸を玄関に飾る祖父の姿を想い出すと厳かな気持ちになるし、どこかで伝統を守りたい気持ちも強くある。よーし、今年は小さな日の丸でも買うか。そうやって日本の伝統を守り伝えていかないとな。

あっ!

伝える人がいなかったわ。

こんな風にしてもう20年か30年経ったらもっともっと日本の伝統は姿を消して新たな風物詩が生まれていくんだろうな。100年後の日本はいまとは全く違った姿になっているかもしれない。江戸時代や明治時代といまが全く違うように。

 

 

 

 

一年の計は元旦にあり

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みなさまあけましておめでとうございます。

本年も何卒よろしくお願いいたします。

 

「一年の計は元旦にあり」と子どもの頃はよく祖父母や母から聞いた記憶がある。

なので「今年1年の目標」的なことを年末あたりからぼんやりと考え始め、元旦には「今年はこれを頑張ろう」という感じで1年をスタートさせていたが数年前からほとんどしっかりとした目標を立てなくなってしまった。特にコロナ禍がはじまってから頑張っても手応えがない、運命が動かないと感じることが多くなって「だったらもう自然に任せよう」と何となくダラダラな(実際は身を粉にして働いていた時間もあるけれど)月日を過ごしてしまった。

ということで、今年は何をしようかな〜といろいろ思索中。もう元旦なので遅いスタートではあるけれど。仕事や人間的成長など濃すぎる内容は秘密にしておくとして、公にしてもいい目標はというと、普段の年とほとんど変わらない。

1.読書をする

2.毎日文章を書く

3.できれば毎日ブログを更新する

4.なるべく外の世界に出る(引きこもりなので)

要するに今年の目標も「ちゃんとする」ということだ。ちゃんとするというのは大人なのでしっかりしましょうね、的な意味だ。ちゃんと読書しようとかちゃんと生活しようとかちゃんと仕事しようとか。けれど、ちゃんとする中でも「風の時代」らしくもう二度と苦行のような生活はしないでおく。「頑張らないと○○が手に入らない」「頑張らないと××できない」という時代は終わったようだし、自分でも何となくそう感じる。実は以前、1日3時間睡眠で苦行のような生活を数年していたこともあったが、多分これからはもうしない。もうちょっとしなやかに生きていくと思う。

今日もひとりでのんびり過ごしてしまったが、このブログと信州松本ぺんぎん堂のブログも更新できたし、読書もちょっとしたし、まあ、かたつむりのようだけどちょっぴり先に進んだ。いまは21時になるところだから早寝もできそうだし。早寝をするというのは自分的には大きな進歩だったりする。完全な夜型人間なのでブログを書くのも深夜が多いし、何か始めるのも日が沈んでからの方が多いので、昨日の夜も早寝ができて今日も早寝ができるとなると我ながらちょっと変化したのかと思ってしまう。

私はものすごい不眠症だったのだが、去年の11月くらいからそれほどでもなくなった。以前よりも睡眠も深くなった気がする。人生の転機にいるのかな、と思う。江原啓之さんなどスピリチュアル関係の方がみなさんおっしゃるのが「人生の転機には眠くてしょうがなくなる」ということ。何でも眠っている間はあの世へ行ってスピリットたちと打合せをしているらしい。たくさん変わりたいのでしっかり眠って魂はあの世へ里帰りしてしっかり打合せをしてきてほしい。

さて、お風呂に入って寝ようかな。それとも元旦だからお風呂上がりに一杯飲もうかな。あ、一杯やっちゃうと寝る時間が遅くなっちゃうのかな。

というか、今日は初夢の日じゃん。いい初夢を見られるといいな。

みなさまもいい初夢を見ることができ、幸せに1年が過ごせますように。

 

 

 

 

正月飾りと年賀状

もうすぐお正月。

正月飾りやお供えの準備のために近所の商店街に買い物に出かけた。

夕方行ったせいかもしれないが、スーパーにもコンビニにもお菓子屋さんにも欠品が目立った。年末だからお母さんたちがすでに大々的な買い物を済ませたせいかもしれないが、商品のない棚を見るとまだ故郷にいたときに大雪で県外から物資が入ってこなくなったときとか東日本大震災のときのことを思い浮かべてしまう。それほど通常であれば日本はモノが豊かだ。だから大々的な棚の空白は心をざわつかせる。

 

私は勝手にお正月飾りは28日にしているが、正月飾りを「この日にやるのはやめた方がよい」という日が2回あるという。31日の「一夜飾り」は年神様に対して失礼に当たるから良くないということは知っていたが、もうひとつ29日も「二重苦」を連想させるからよくないのだそうだ。日本人はこういう言葉の感性を大事にしてきた。以前なら「ダジャレじゃん」などと笑っていたと思うが、言霊には力があると感じ始めてからは「迷信だ」などと軽視せずに昔の人の言うことを受け止めたいと考えるようになった。

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小さい頃、お正月は憂鬱だった。

台所で祖母や母が鬼のような形相でおせちを作っている姿が苦手だったし、落ち着きのない子どもだったから家でまったりしているのも退屈だった。

いまはどうだろう。

初めて帰省せずに東京でお正月を過ごしたときには東京の人口や車の量がいつもよりグッと減っていて面白かった。

母が生きている頃は着物を着付けてもらい少しはお正月らしいことをしていたが、いまはもうそれほどいつもの日々と変わらない。今日はスーパーも混んでいたのでお正月もいつも通りの食事でいいや、と思っちゃって特別なものも買わなかった。年々お正月感が乏しくなっていくのはひとり暮らしだからなんだろうなあ。家族がいたら家族にお正月気分を味わわせてあげようと考えて行動すると思う。

あ。

あああああ。

いま突然思い出した!

年賀状!!!!

買ったまま何もしていないや(汗)。なぜかすっかり忘れていた。

もう年賀状を卒業したくて年々出す枚数も減らしていっているのだが、どうしても出さないといけないお付き合いもある。LINEでもおめでとうメッセージくれるのに年賀状もくださる猛者もいる。もうメールとSNSだけでいいじゃん、と思ってしまう気力のなさ(笑)。

ああああ、もう元日には着かないな。仕方ない。あきらめよう。

 

 

 

ローソンの生クリームが好き

「コンビニスイーツよりケーキ屋さんのケーキの方が絶対においしいよね!」と感じる味覚なのだが、ローソンのウチカフェシリーズには結構満足してしまっている。特に生クリームを使ったもの。そう、私は生クリーム大好き人間なのだ。

最初はプレミアムロールケーキが好きでよく食べていたが、最近ハマっているのはこちらのふたつ。

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「こく旨MILKどらもっち練乳ソース入り」と「MILK台湾カステラバナナ入り」。

台湾カステラの方には値引きシールが貼ってある。以前コンビニでは賞味期限が近づいても値引きされなかったが、値引きされるようになったのはいいことだと思う。家に帰ってすぐに食べれば問題ないし、廃棄するなんてもったいない。

 

「こく旨MILKどらもっち練乳ソース入り」は本当にもっちもちの生地の食感が堪らないし、練乳入りの生クリームが美味。

「MILK台湾カステラバナナ入り」も不思議な食感の生地がおいしいし、やはり生クリーム最高!本物のというか台湾現地の台湾カステラは食べたことないけれど、食べてみたいなあ。そういえばずっと前に台湾に行ったときにホテルの朝食バイキングにあったパンがメチャメチャおいしかったなあ。ふんわりして、真っ白で。あれ、自分がパンだと思い込んでるだけでもしかして台湾カステラだったのかなあ………。私の中では台湾はパンもおいしいイメージがすっかりついてしまっているのだが。

 

私の腸はグルテンカゼインもやめてくれ〜と訴えるが、お口は食べたいという。それで誘惑に負けてたまに買ってしまう。

一緒に味わうのもカフェラテだから腸さんにとってはいい迷惑なのだが、ずっとがまんしているとストレス溜まるからな〜(言い訳)。

しかし、やはり外出前にグルテンカゼインを摂ることは避けている。おなかの調子が悪くなって大変だからだ。もっともっとグルテンフリー、カゼインフリーのおいしいものが世の中にあふれるとうれしいんだけどなあ。どらもっちの食感を楽しみながら「こういう生地、米粉タピオカ粉とかで作れないかな〜。タピオカ粉よりも山芋かな〜」などと考えてしまう。実際に作るかどうかは別として、なぜかグルテンフリーで作ることを考える。グルテンいっぱい、ミルクいっぱいのものを食べるときはいつもそうだ。根っからの食いしん坊だ。

 

ちなみに下にリンクを貼った西尾のライスクッキーをたまにAmazonで購入している。私のおなかに悪いものが入っていないので朝食べても外出前に食べても大丈夫だし、おいしいから気に入っている。また、保存期間も長いので備蓄品も兼ねて購入しているというのに、おいしくてついついすぐに食べきってしまう。備蓄品こそアレルゲンが入っていないものを用意しておかないとトイレで苦労するだろうと思うのになあ……。やはり根っからの食いしん坊だ。

 

 

 

ボケ浪人状態

最近ダメだなーと本当に思う。

一番ダメなのは読書量が極端に減ったこと。車内では必ず本を読んで過ごす電車にほとんど乗らなくなったせいもあるが、YouTubeに頼って満足してしまっているところも大きい。

あとはちょっとストレスが溜まってくるとゲームをやって時間を無駄にしまくっている。まるで現実逃避しているダメな受験生だ。大学浪人時代、あまり勉強をしないせいで家族によく「ボケ浪人」と言われていたが、現在もボケ浪人に近い生活をしている。これで運が向上するわけがない。

まあこれは運が上向かないから現実逃避しているともいえるし、現実逃避しているから運が上向かないともいえるし、本当は現実逃避も思いっきり楽しめれば運が上向く気もするけれど。

そうそう、先日YouTube小林正観さんの話を聞いていたら天照大神は悩んで苦しんで「助けてください」と泣いてすがりつく人は助けない、みたいな話をしていた。そうだよね、天岩戸にお隠れになったときもお外で裸踊りしたりどんちゃん騒ぎしているのが気になって扉を開けたくらいだから。うれしいな、楽しいな、という人を助けるのが天照大神なんだって。

 

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しかし、最近ラジオのように聴くことが多いYouTubeだが、YouTubeでいい話を聴いたり面白い動画を観てもあまり頭に残らなかったりする。これは電子書籍よりも紙の書籍の方が頭に残る現象と似ているかもしれない。それでも聴かないよりマシだと思って家事仕事をしているときにはYouTubeで誰かの講演会を聞いたりニュース解説を聞いたり朗読を聴いたりしてしまう。画像も一緒に楽しんだ方がいいチャンネルは食事中に楽しんでしまう。まるでテレビっ子のようだが、これが意外と脳疲労の原因になっているように思う。人間の脳は四六時中情報や刺激を与え続けても処理しきれないし、マルチタスクになってから人間は効率もIQも落ちたと聞く。

それでもついついYouTubeから情報を仕入れようとしてしまうのは、ほかで時間を無駄にしているので何かで挽回したいせいかもしれない。けれど、思考の整理をするために瞑想でもしないと入れ続けている刺激のせいで頭の回転が衰えている気がする。よかれと思ってやっていることが却ってよくないことの例だ。

 

そんなことを考えつつも、最近また面白いチャンネルを見つけてしまった。

それが「真実を語る黒子」。またまた好きなオカルト系だが、民俗学的観点からの切り口が本当に面白いし知的好奇心がくすぐられる。

「真実を語る黒子」さんはこちらの動画にあるツイートで有名になったらしい。

 

 

ネットストーカーの手口や呪術的な「生き霊払い」の動画になっているが、ネットストーカーは本当に危ないので家族全員にも観てほしいくらいだ。うっかり個人情報なんて上げてしまうと大変だからな。

「真実を語る黒子」さんはセカンドチャンネル「965RADIO」もやっている。こちらはコメントやお便りを紹介したり、コメントで寄せられた怪奇体験を民俗学や宗教学、神話学などの独自の切り口で開設したり深掘りしたり。ラジオ形式なので家事をしているときや寝るときに流しっぱなしで聴いている。

 

と、黒子さんを聴いていてどこかで聴いた声だな〜と感じて思い出したのが、こちらも好きでよく視聴していた「PILGRYTHEM」という陰謀論系のチャンネル。こちらも知的な切り口が好きで楽しみにしていたのに、何がいけなかったのか更新されなくなってしまった。映像のクオリティも異様に高かった。クオリティが高いのにチャンネル登録者数は少なかったから採算が取れなくなってしまったのか。理由はわからないが残念。復活してくれたらすごくうれしい。

 

 

おやおや、「最近ダメだ」と言っているくせに、何だか「ボケ浪人」と同等生活が何だか楽しそうに見えてきたぞ〜(笑)。

そうだ、もう今日は早く寝て(っててっぺんまわってるけど)明日からちゃんと生きよう。うん、そうしよう。楽しく生きて天照大神さんにもお守りいただけるようにしよう、そうしよう。

ということでみなさまおやすみなさい。よい夢を!