活字の森 思考の迷路

読んだ本や考えたことなど徒然なるままに書いていきます

Kindle本を出してみた

今日、1月11日、Kindleで書籍を出版した。

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これは2018年に1度「私的オカルト実話①魂は初七日まではそばにいる」を改訂した本だ。

最初の出版は手探り状態で未熟なところもたくさんあったが、今回の改訂でかなり読みやすくなったと思うし、大幅に加筆した。

名前は読みづらいと思うが久遠悠嘉(くどおゆうか)と読む。めでたいこと、素晴らしいことがどこまでも永遠に続いていくというおめでたい名前だ。ブログで名乗っているぺんぎん茶々丸でいこうかなとも考えたがちょっとバカっぽいのでやめておいた。

 

この本は私の家族や親しい友人が亡くなったときに、初七日までの間に現れて様々な現象を起こしたり、夜道で転んだ男の子を助け起こそうとしたら消えてしまったことなど、どれも私が体験した実話を収録している。今回改訂するに当たってはアメリカの医師で臨死体験の礎を築いたレイモンド・ムーディー博士が開発した亡くなった方を呼び出す方法も紹介している。

 

私には霊能力という大袈裟なものはないが、見えてはいけないものを見てしまったりわかってはいけないことがわかってしまうなど、時折超常現象に見舞われる。

一般的に霊が見えるとかUFOを見たなどと言うと頭がおかしい人に思われるか見間違いや勘違いを指摘されるが、実際に体験してみるとそうは言いきれないことがわかる。けれどもやはり周囲の人たちにガンガンに語ることは避けてきたが、どこかにそれらの体験を残しておきたいという思いもあったので実際に形にした。

このシリーズではほかにあと2冊出版しようと目論んでいるくらい幽霊やらUFOやらの不可思議な体験をしている。そんな目にばかり遭って怖くないのかというと、私も子どもの頃は幽霊がとても怖かったが、自分は後ろの人たち(守護霊)にかなり強く護られていると実感しているし、祖父母が教えてくれた「南無妙法蓮華経」がすごい威力を発揮することを知っているので大人になったいまは子どもの頃ほど恐れてはいない。本の中でも書いているが「南無妙法蓮華経」は母の生き霊と戦ったときに絶大な威力を発揮した。

 

他人様から見れば「実話怪談」という分類が一番しっくりくるかも知れないが、しかしこの本はオカルトとか怪談に分類するのはあまり気が進まない。なぜなら大事な人が亡くなるときに幽霊が怖いとかオカルトだとかそういう気持ちにはあまりならないからだ。まだ子どもの頃に体験したときは本当に恐ろしかったが、肉親や友人を多く亡くしてくると、段々そういう恐れという気持ちからは遠くなっていく。それは哲学者の三木清が「人生論ノート」で「愛する者、親しい者の死ぬることが多くなるに従って、死の恐怖は反対に薄らいでいくように思われる。生まれてくる者よりも死んでいった者に一層近く自分を感じるということは、年齢の影響に依るであろう。」という感覚にも近い。

 

そんな人間が書いた本ですがお読みいただけると幸いです。

【オススメYouTube】中武優の不思議な館

テレビをほとんど観ずにYouTubeを主に視聴するようになって久しい。

そんなに観ているんだから好きなチャンネルでも紹介していこうかなと思い立った。いいものはみんなでシェアしていきたい派です。

 

今回紹介するのは中武優の不思議な館

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この絵柄はYouTubeアニメではよく目にするのだが、中武さんのチャンネルは別格。

どうやらこの黒い眼帯の人が中武さんらしいがご本人もこんなお顔なのだろうか?

 

このチャンネルでは「不思議な話」「怖い話」「都市伝説」などをアニメで見せている。

声の出演はほぼ中武さんおひとりで何役もやっておられるようだがそこがまた味があっていい。「うわあああ」という叫び声のファンも多いようだ。

私は機会の音声は好きではないので生の声が嬉しい。

 

また中武さんのチャンネルのどこが秀逸かというと、台本がきちんとしていて面白いところと日本語が正確なところだ。以前もブログに書いたが、私はユーチューバーさんたちの日本語の間違いがすご〜〜〜〜く気になってしまい、寝ていても間違った日本語が流れると起きてしまうタイプなので、中武さんの日本語は本当に安心できる。これまで視聴してきた中では読み間違いも間違った使い方もない。以前も書いた通りこれまでは「妙佛DEEP MAX」の妙佛さんしか安心して聞くことのできる日本語がなかったので、正しい日本語使いさんチームに中武さんも入って嬉しい。もうひとり正しい日本語使いさんチームに入れたいのは「真実を語る黒子」の黒子さんだ。この調子でいい日本語の方が増えていってほしい。

 

そうそう、日本語ばかりでなく「中武優の不思議な館」には中毒性があるようで見始めるとこれまで見ていなかったものを一気見してしまうくらい面白い。

 

今日UPされていた「骨董屋の喜一じいちゃんシリーズ」はネットで有名な話だが、きちんと独自のシナリオにしていて楽をしていないというか、手をかけて作っているなーと感心する。私はがさつな性格なのでここまでできるかなと考えてしまう。もっとも中武さんがおひとりですべてこなしておられるのかどうかはわからないが。

どの動画も面白いがほかに好きなシリーズは「私は見た死後の世界」「芸能人の怖い話」「怖面白い話」「戦時中に起きた不思議な話」だ(あれ?ほとんど?)。

 

昔は好きなアニメは1週間待って録画して見直したりしていたものだが、近年はYouTubeやAmazonprimeができて本当に快適になった。好きな動画を好きなときに観られるし、くり返し見られるし。私はYouTubeもprime会員になっているのでCMも入らないし、快適快適。

しかし、120以上のチャンネルを登録しているのでブログで1チャンネルずつ紹介していくと120記事以上書けてしまう計算になるな。とはいえ、登録はしたもののほとんど見ていないチャンネルが大半なのでそうはならないのだが。

 

雪が好き

今日は東京23区内でも9センチの積雪。

私は子どものまま大人になってしまったので雪が降ると嬉しくて嬉しくてワクワクする。景色が一変するせいなのか何なのか自分でもよくわからないけれど本当にウキウキしてしまう。子どもの頃からそうだった。雪が降ると外に出て空を見上げてまるで自分が上空に吸い上げられているような錯覚を感じて楽しんだり、虫メガネで雪の結晶を観察したり、雪が積もれば雪だるまやかまくらを作ったり。もっとも松本市あたりではかまくらが作れるほど降ることは少なかったのだが。そうそう、雪のちょっと綿に似た匂いも好きだった。

 

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東京は雪になれていないからと、ちょっと雪が降ると毎回事故が起きたり転倒者が相次いだりする。

私が思うにこれは雪に慣れていないのではなくて、雪を舐めているからだと思う。

ノーマルタイヤで車を走らせたり、歩行者は靴底がツルツルの靴を履いていたり、革靴だったりハイヒールだったりパンプスだったり。そんなに雪に慣れていないとか雪が苦手だというなら「スノトレを履け!」と私は言いたい!

雪とは無縁の地域の出身の方はご存じないと思うが、「スノトレ」とは雪が降る地域で愛用されるシューズで、外見はちょっとごつくて重いけれど雪道や凍った路面でも滑りにくい。しかも防完成にも優れている。私の出身地の松本は豪雪地帯ではなく、そのせいかスノトレは主に子どもたちが履いているイメージだが、雪の上を歩き慣れないならスノトレ履けばいいのにと思ってしまう。

ちなみにスノトレ自体はアシックスの登録商標で「スノートレーニング」または「スノートレッキング」を元にして作られた言葉のようだ。

まあ、今の時代性能もいいブーツもあるんだからそれで充分なのだが、どうしてそれも履かないんだろう。私自身ももうスノトレは何十年も履いていなくてブーツを愛用している。

 

しかし、東京はいろいろな他道府県から人が集まっている場所なのに雪対策をしていない人が多いとか、暴風雨の日に傘をさそうとしてすぐに傘の骨を折る人がそこら中にいたりとか、なんだかちょっと面白い。豪雪地帯出身の人も多いだろうし、台風に毎年悩まされる地方出身の人も多いだろうになぜかそういう人たちから学んでいない。だが、誰かから学ばなくて少し考えれば暴風が吹き荒れていたら傘は壊れるとか、ツルツルの靴だと雪道を歩けないとかわかりそうなものではある。まだ人生経験の少ない若者だけがそうなのかと思えばそうでもない。これは一体どういう現象なのだろうか。東京は不思議なところだ。

 

みなさま、明日の朝は足もとお気を付けてお出かけください。

 

 

 

読書「リユニオンズ 死者との再会」

今回ご紹介するのはこちらの本。

 

 

著者のレイモンド・ムーディー博士はアメリカの医師で心理学者。臨死体験を客観的に探求し、臨死体験研究の礎を築いた。全世界で1400万部を超える大ベストセラーの「かいまみた死後の世界」が有名だ。
実際にこの本を読んだのは5年くらい前だと思うが、最近仕事で読み返した。何回読み返しても興味深く、いくつも付箋を貼ってしまう。
この本の何がすごいかというと亡くなってしまった愛する人の霊を呼び出す方法をちゃんとした医師が明かしているというところだ。その方法とは鏡を見つめて変成意識に入ることで鏡の中に亡き人が現れて実際に会話ができるという「鏡視」だ。場合によっては鏡から抜け出して触れることもできるという。ムーディ博士はその鏡視を使って死者と出会うことのできる「プシュコマンテウム(サイコマンテウム)」という施設を自分が所有しているアラバマ州の粉ひき小屋を改装して作り上げた。それらの詳細については今月中に出版予定のKindle本でも紹介するので、できたらそちらもお読みいただけると泣いて喜びます。Kindle本についてはまた告知させていただきますのでよろしくお願いいたします。
 

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私は子どもの頃から死に魅せられているところがある。「死にたい」ではなくて「人は死んだらどうなるのか」「死後の世界は本当にあるのか」「魂は本当に存在するのか」「死後の世界とはどのようなところか」ということに強い関心があるのだ。言い換えれば魂の永遠に興味があるのだ。
それはもう運命づけられていたのかもしれないと先日ふと思った。ニュースで葬儀の場面が写ったときに幼い頃の記憶が甦ったからだ。
 
それはまだ就学前のある日。
私は父に連れられてどこか人がたくさん集まっている場所へ行った。畳の部屋に大人ばかりがたくさんいる。その部屋の中にはベニヤ板のような木でできた大きな箱と小さな箱がひとつずつ並んでいた。父は知らないおじさんと話をしている。退屈になった私はその木箱をさわりながら父に
「お父さん、これなあに?」
と聞いた。父はあわてて私の手を引っ張り
「こら、触るんじゃない!」
と言った。怒っているというよりも、周囲の目を気にしてたしなめる、といった感じだった。そして私は再び父に手を引かれてその場所を去った。
小学生になってからそのできごとを思い出し、あれは何だったのか母に尋ねたことがある。すると母は
「ああ、お葬式だわ」
と答えた。厳密に言うとお葬式の最中ではなかったようだが、親子が同時に亡くなってしまったために大小ふたつの棺が並んでいたらしい。なぜ父と私がふたりで行ったのか、私とどのような関係にあった人なのかはもう聞くべき両親も亡くなってしまったのでわからない。
けれど、この記憶を始まりにして「死」に対する意識が高くなったような気がするのだ。
また、私は比較的早く死を認識できた子どもで、小学校に上がる前にはすでに死が怖くて夜眠れなくなり、弱冠5歳くらいにして祖母に「死とは夜寝て朝起きるのと同じことで何も怖くない」と諭されたのだった。
そんな風だったからいつも死後の世界について考えていたような気がする。一時はテレビ番組の企画書もそのような内容のものを多く出していたことがあって某制作会社社長に「死ぬことばっかりじゃなくて生きることも考えてください」と言われたことがあった。いや、そういうつもりで考えたわけじゃないんだけど……(笑)。何というか、よく生きるためにあの世のことを考えているというべきか。
ということで、もしも亡くなってしまった方に会うことに興味があるのならムーディ博士の本はお勧めだ。
下にリンクを貼った2冊も面白い。
 

 

 

運動神経が存在しない

今日は箱根駅伝の復路だった。

学生のみなさん、早朝からご苦労だなあと思いつつ暖かいお布団の中で観戦した。我が母校の後輩たちも頑張っていた。まあ、私は生来の運動音痴なので在学中に陸上部なのか駅伝部なのかとも全然接点もなかったが。

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そう、何が苦手って私は運動がとても苦手。よく運動音痴というけれど、自分の中には運動神経そのものが存在していないとさえ思ったものだ。それに体は丈夫だが持久力がない。あきれるほど持久力がない。なのでジョギングはおろかマラソンも考えるのも怖い。きっと駅伝なんか練習すら絶対について行かれない。1分でを音を上げるだろう。

そんなだから本当に体育の授業は拷問のようだった。走る、といっても体をどのように動かしたらいいのかわからない。走るには走れる。けれど多分、正しく体を動かすことはできていない。一体どうなっているのかは自分でもよくわからない。

ただし、自分でも「もしかして運動できるんじゃね?」と感じたことはあった。

それは社会人になってからなりゆきでどうしても義務としてバレーボール大会なるものに出なければいけなくなったときのこと。あのときは本当に憂鬱だった。何が憂鬱かというと団体競技はチーム全員に迷惑をかけることだ。私は周りの人に

「知りませんよ、本当に知りませんよ。サーブなんて打てませんよ、ボールだって拾えませんよっ」

と予め言っていたのだが、みんなは謙遜だと思って

「はいはい、わかったわかった。大丈夫大丈夫」

と全く聞く耳を持ってくれなかった。

 

そして迎えた大会当日。

あれ?

なんか違う。

あれ?こんなんだっけな?

 

ということでなぜか私はサーブを入れることもできたし、レシーブもできた。

一体これはどういうことなのだろう?

青学が優勝して原監督のインタビューを見たときにこれら一連の出来事を何故か思い出し、社会人になってからのバレーだけはかろうじてできた理由が何となくわかった気がした。

原監督は選手にとても優しい。厳しいところもあるだろうが学生の人格を否定するようなことは決して言わないだろう。

私は小学生になってからあまり運動ができないことを先生にすごく傷つく言葉で指摘された。体育のたびにそんなだから余計に身体が動かなくなる。先生がそんなだからクラスメイトにもからかわれる。だから心も体も萎縮して元々苦手な運動がどんどん苦手になっていったのではないだろうか。社会人になってからのバレーボールはその呪いが少し解けていたのかも知れない。毎日体育で罵られるわけじゃないから。

ただし、まだ会社員だった頃、社員みんなでボウリングに連れて行かれたときに歩きながら球を投げるという芸当ができなくて、見るに見かねた隣のレーンで颯爽と投げていた全く見ず知らずのおじさんに指導をされたうえ、その指導通りには全くできなかったことも告白しておく。

 

 

 

消えゆく日本の伝統と新たな風物詩

今年もひとりで年末年始を過ごした。

私は正月飾りなど最低限のことはする方だが「まあいいか」と手を抜いてやらないこともある。おせちや正月料理がそうだ。とりあえずお雑煮を作っても自分しか食べないのでそれほど力を入れて作らない。

そして今日、ふと実感したことがある。

そうか、こうやって日本の伝統は失われていくんだ、と。

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昔、おじいちゃんやおばあちゃんが一緒に暮らした大家族の生活ではおそらく伝統は綿々と伝えられていったことだろう。うちも祖父母が元気でいた頃はお正月のおせちもちゃんと一の重には何を詰めるかなど伝統を守っていたようだったし、祝日には玄関に日の丸を飾ったり、お祝い事があればお赤飯を炊いたりしていた。

けれど、祖父母がいなくなると段々年中行事は簡素化していき、ひとり暮らしとなったいまは本当に最低限のことしかしなくなった。おそらく日本中そうだろう。

その代わり、クリスマス、バレンタイン、ホワイトデー、恵方巻きなどなど商人の考えた行事は定着していっている。作法も礼儀もないし(恵方巻きにはお下品な食べ方の作法があるが)、簡単だから大家族だろうがひとり暮らしだろうが関係ない。

クリスマスもバレンタインも季節の風物詩的なものになったが、昔々の日本の風情はほぼ姿を消しつつある。それを考えると「祝日に日の丸飾ろうかな……」という気持ちになる。祝日の早朝、日の丸を玄関に飾る祖父の姿を想い出すと厳かな気持ちになるし、どこかで伝統を守りたい気持ちも強くある。よーし、今年は小さな日の丸でも買うか。そうやって日本の伝統を守り伝えていかないとな。

あっ!

伝える人がいなかったわ。

こんな風にしてもう20年か30年経ったらもっともっと日本の伝統は姿を消して新たな風物詩が生まれていくんだろうな。100年後の日本はいまとは全く違った姿になっているかもしれない。江戸時代や明治時代といまが全く違うように。

 

 

 

 

一年の計は元旦にあり

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みなさまあけましておめでとうございます。

本年も何卒よろしくお願いいたします。

 

「一年の計は元旦にあり」と子どもの頃はよく祖父母や母から聞いた記憶がある。

なので「今年1年の目標」的なことを年末あたりからぼんやりと考え始め、元旦には「今年はこれを頑張ろう」という感じで1年をスタートさせていたが数年前からほとんどしっかりとした目標を立てなくなってしまった。特にコロナ禍がはじまってから頑張っても手応えがない、運命が動かないと感じることが多くなって「だったらもう自然に任せよう」と何となくダラダラな(実際は身を粉にして働いていた時間もあるけれど)月日を過ごしてしまった。

ということで、今年は何をしようかな〜といろいろ思索中。もう元旦なので遅いスタートではあるけれど。仕事や人間的成長など濃すぎる内容は秘密にしておくとして、公にしてもいい目標はというと、普段の年とほとんど変わらない。

1.読書をする

2.毎日文章を書く

3.できれば毎日ブログを更新する

4.なるべく外の世界に出る(引きこもりなので)

要するに今年の目標も「ちゃんとする」ということだ。ちゃんとするというのは大人なのでしっかりしましょうね、的な意味だ。ちゃんと読書しようとかちゃんと生活しようとかちゃんと仕事しようとか。けれど、ちゃんとする中でも「風の時代」らしくもう二度と苦行のような生活はしないでおく。「頑張らないと○○が手に入らない」「頑張らないと××できない」という時代は終わったようだし、自分でも何となくそう感じる。実は以前、1日3時間睡眠で苦行のような生活を数年していたこともあったが、多分これからはもうしない。もうちょっとしなやかに生きていくと思う。

今日もひとりでのんびり過ごしてしまったが、このブログと信州松本ぺんぎん堂のブログも更新できたし、読書もちょっとしたし、まあ、かたつむりのようだけどちょっぴり先に進んだ。いまは21時になるところだから早寝もできそうだし。早寝をするというのは自分的には大きな進歩だったりする。完全な夜型人間なのでブログを書くのも深夜が多いし、何か始めるのも日が沈んでからの方が多いので、昨日の夜も早寝ができて今日も早寝ができるとなると我ながらちょっと変化したのかと思ってしまう。

私はものすごい不眠症だったのだが、去年の11月くらいからそれほどでもなくなった。以前よりも睡眠も深くなった気がする。人生の転機にいるのかな、と思う。江原啓之さんなどスピリチュアル関係の方がみなさんおっしゃるのが「人生の転機には眠くてしょうがなくなる」ということ。何でも眠っている間はあの世へ行ってスピリットたちと打合せをしているらしい。たくさん変わりたいのでしっかり眠って魂はあの世へ里帰りしてしっかり打合せをしてきてほしい。

さて、お風呂に入って寝ようかな。それとも元旦だからお風呂上がりに一杯飲もうかな。あ、一杯やっちゃうと寝る時間が遅くなっちゃうのかな。

というか、今日は初夢の日じゃん。いい初夢を見られるといいな。

みなさまもいい初夢を見ることができ、幸せに1年が過ごせますように。